一人の人生を読む
1970年8月、英国のストラトフォードで上演された『夏の夜の夢』(A Midsummer Night’s Dream)には、森らしい森がなかった。
妖精たちが飛び交うはずの場所を占めていたのは、明るく照らされた白い箱だった。俳優たちは鮮やかな衣装をまとい、空中につるされたブランコに乗り、竹馬で歩いた。シェイクスピアの恋人たちが迷い込む森は、幕絵や木々で再現されなかった。ピーター・ブルック(Peter Brook)は、俳優たちの動きに森を生み出させた。
この箱をデザインしたのは舞台美術家サリー・ジェイコブズ(Sally Jacobs)である。ブルックの演出は、彼女の設計と俳優たちの身体があって初めて成り立った。公演は大きな反響を呼び、のちに北米や日本を含む各地を巡った。
当時45歳のブルックは、すでに英国演劇界の中心にいた。それでも彼は、名の知られた劇場や、シェイクスピアをよく知る観客のもとを離れようとしていた。役者が誰かの前に立つとき、いったい何が芝居を生むのか。それを確かめる場所を変えたかったのである。
派手な舞台も、満員の客席も知っていた
ブルックは1925年、ロンドンに生まれた。両親はロシア系ユダヤ人で、父サイモンは医薬品の事業を営んでいた。少年の頃から映画と演劇に熱中し、オックスフォード大学にいた戦時中も仲間と映画を撮っていた。健康上の事情で兵役には就かなかった。
1940年代半ばに舞台演出を始め、22歳頃にはロンドンの王立歌劇場コヴェント・ガーデンで制作を任される。1949年には画家サルバドール・ダリ(Salvador Dalí)が舞台美術を担当したオペラ『サロメ』が物議を醸し、その翌朝に職を失った。大胆な仕事が、雇い主の望む舞台になるとは限らなかった。
けれども、仕事は次々にあった。ロンドンの商業劇場で喜劇を当て、1958年のミュージカル『イルマ・ラ・ドゥース』は千回を超えるロングランとなった。映画も撮った。ウィリアム・ゴールディングの小説を原作とする『蠅の王』(1963年)では、子どもたちを撮影し、長い編集作業に取り組んでいる。
喜劇を長く上演し、映画では撮影と編集に時間をかける。ブルックは観客を集める舞台も、手の込んだ制作も経験していた。そこから、衣装や装置を減らした舞台では何が起こるのかを探り始めた。
1951年に結婚したナターシャ・パリー(Natasha Parry)も俳優である。彼女には映画や舞台での独自の仕事があり、のちにはブルックの実験的な公演にも参加した。二人の間にはイリーナとサイモンという子どもが生まれた。演劇はブルック一人の職業ではなく、家庭の時間にも関わっていた。
俳優が立つところから、舞台を考える
1962年、ブルックはロイヤル・シェイクスピア・カンパニーで『リア王』を演出した。ポール・スコフィールド(Paul Scofield)が演じる王の世界に、悲劇の暴力がむき出しになった。続く『マラー/サド』(1964年)では革命と狂気を、1966年の上演ではベトナム戦争を扱った。同じ「演劇」でも、観客に差し出すものは喜劇から同時代の政治まで広がっていった。
さかのぼる1957年の『テンペスト』では、舞台改革者エドワード・ゴードン・クレイグ(Edward Gordon Craig)に手紙を書き、装置と衣装をどう一つにまとめるか相談していた。
1968年に刊行した『なにもない空間』(The Empty Space)は、装置のあるなしより、演じる人と見る人が出会うことから演劇を考えた。
1970年の『夏の夜の夢』はむしろ賑やかだった。白い箱に鮮烈な色彩が飛び込み、俳優は跳ね、つるされ、観客の予想外の場所から姿を見せた。森を写実的に再現する道具を減らすことで、俳優たちの動きが前面に出た。
笑ってくれない観客
『夏の夜の夢』の成功とほぼ同時期、ブルックはパリへ移った。フランス政府や財団の支援を受け、国籍も言語も異なる俳優たちと国際演劇研究センターをつくる。日本から参加したのが笈田ヨシだった。
新しい一座は、劇場の座席を買い、筋書きを知って来てくれる観客のいない場所へ出かけた。1970年代前半には、アフリカの集落などでカーペットを敷き、即興で芝居を見せている。
その旅のある村のことを、笈田は2024年の上田久美子との対談で振り返った。
一座はパリで喜劇を準備してきた。村で上演してみると、人々はおしゃべりを続け、ほとんど芝居に注意を向けなかった。ブルックは笈田に日本の民謡を、別の米国出身の女優にはフォークソングを歌うよう求める。歌なら言葉の違いを越えられると考えたのだ。ところが、それでも観客の様子は変わらない。
そこでブルックは、観客の側に何か披露してもらえないかと頼んだ。さらに俳優たちは、言葉を使わず、声の調子と手拍子を変えてみた。笈田によれば、そのとき初めて聞き始めた人たちがいた。
ヨーロッパの観客に向けて用意した喜劇も、それぞれの国の歌も、この場では通じなかった。ブルックは演じ手の側から一方的に見せ続けるのをやめ、集まった人たちにも声を出してもらった。
別の機会、村の人に見たいものを尋ねると、笑いより怖い話がよいと言われた、と笈田は語っている。即興で恐怖をつくるのは難しく、その期待にはうまく応えられなかったという。喜劇を持参しても、それを見たい相手ばかりではなかった。
壁のある場所へ戻る
各地を旅したあと、ブルックの一座はパリで常設の拠点を得る。1974年、北駅の近くにある古いブッフ・デュ・ノール劇場だった。傷んだ内装を全面的に新しくするのではなく、壁の古さを残した。舞台と客席の段差や配置を組み替え、演じる人と見る人を近づけた。
この場所を見つけ、運営を支えたのは、総支配人ミシュリーヌ・ロザン(Micheline Rozan)でもあった。ブルックが旅先で実験できたのも、パリに一座をつくれたのも、資金と制作の仕事があったからだ。「なにもない空間」を求める劇団にとっても、稽古場と客席のある建物は欠かせなかった。
劇場では、『鳥の会議』や、オペラを小さな編成に作り直した『カルメンの悲劇』などが生まれた。新しい公演は、準備の途中で観客に見せ、反応を確かめることもあった。村で何を見てもらえるか手探りだった演出家は、パリに戻ってからも観客の反応を稽古の途中で確かめた。旅先のカーペットは、傷んだ壁の残る常設劇場へと変わった。
世界の物語を、誰が語るのか
1985年、ブルックはインドの長大な叙事詩をもとにした『マハーバーラタ』(Mahabharata)を上演した。脚色を担ったのはジャン=クロード・カリエール(Jean-Claude Carrière)。フランスのアヴィニョン近郊にある採石場で始まった公演は、全体で約9時間に及ぶ。各地から集まった俳優が、争いと家族、神々と人間の物語を演じた。
作品は大きな賞賛を得た一方、インドや米国の一部の批評家からは「オリエンタリズム」だとの批判も受けた。世界各地の俳優と共通の演劇を探す試みが、今度はインドの物語を誰がどう語るかという問いに向き合うことになった。
その後、彼はまた別の題材に向かった。1993年の『その男は……』(L’Homme qui)は、神経学者オリヴァー・サックス(Oliver Sacks)の症例から出発した舞台である。俳優だけでなく、医師や患者も交えて約5年の研究を重ね、人がものを見たり、覚えたり、他人と関わったりすることを舞台にした。壮大な叙事詩の次に向かったのは、一人ひとりの経験だった。
劇場の仕事を渡しても
ブルックは高齢になっても演出を続けた。マリのイスラム教教師を題材にした『ティエルノ・ボカル』(2004年)では、長く協働してきたマリー=エレーヌ・エスティエンヌ(Marie-Hélène Estienne)が台本づくりを担った。2000年代にも、シェイクスピアやベケット、モーツァルトの作品を演じる人数や空間の大きさを変えながら上演した。
2008年、83歳だったブルックは、ブッフ・デュ・ノールの運営を次の世代へ引き継ぐ意向を示した。直ちに演劇を辞めるという話ではない。長く拠点をともにしてきた人たちと移行を進め、2010年末の『魔笛』を区切りに経営の第一線から退いた。
ともに数々の舞台に携わり、独自の俳優活動も続けてきたナターシャ・パリーは、2015年に亡くなった。ブルックには娘イリーナと、父の稽古風景を記録した映画監督の息子サイモンがいる。
彼自身は劇場運営を離れたあとも仕事を止めなかった。2015年には『マハーバーラタ』を再び扱った『バトルフィールド』、2019年には演劇の先駆者を取り上げた『なぜ?』(Why?)に取り組んだ。2022年7月2日、97歳で亡くなった。
1970年の白い箱は、建物をなくした舞台ではなかった。あの舞台にはジェイコブズの美術があり、俳優の技術があり、見守る観客がいた。アフリカのカーペットにも、期待に応えない観客がいた。そして、古びたパリの劇場には、その仕事を続ける仲間がいた。ブルックは何を舞台から取り去れるかを問い続けたが、最後まで人と場所を必要とする仕事から離れることはなかった。



