一人の人生を読む
王女役を演じるために、ローマへ
1952年、オードリー・ヘプバーンは映画『ローマの休日』の撮影のため、ローマにいた。相手役のグレゴリー・ペックはすでに知られた映画俳優だったが、彼女にとっては初めてのハリウッド映画の主演である。演じるのは、予定に縛られた生活を抜け出し、街で一日を過ごすアン王女だった。
このときのオードリーは、まだ映画界で自分の居場所を築いていたわけではない。ロンドンで舞台に立ち、端役を演じ、ニューヨークで『ジジ』の主演を経験したところだった。バレエダンサーになるつもりで歩き始めた道が、思わぬ形で映画へつながっていた。
『ローマの休日』が公開されると、王女が髪を切り、ローマの街を駆け回る姿が観客を引きつけた。1954年、オードリーはアカデミー主演女優賞を受賞する。彼女の名前は世界に広まった。しかし、それ以前の二十数年間、どこで暮らし、どんな仕事をしようとしてきたのかは、スクリーンに映る王女の軽やかさとはずいぶん違っていた。
踊るための身体に、戦争が残したもの
オードリーは1929年、ベルギーのブリュッセルで生まれた。母エラはオランダの貴族の家系に属し、父ジョゼフは英国人だった。両親には戦前にファシズムを支持した時期があったと伝えられている。六歳のころ父は家庭を離れ、彼女は母と暮らすことになる。のちに本人や家族は、この離別を長く心に残った出来事として語った。
母とともにオランダへ移った後、1940年にはドイツ軍が侵攻し、占領が始まる。彼女はバレエを習っていたが、戦争が続くにつれて食料も燃料も乏しくなった。後年の回想には、十分に食べることも暖を取ることもできなかった生活が残っている。戦争末期の飢餓は、成長期の彼女の身体にも影響した。
戦争が終わると、オードリーは英国で舞踊を学び直した。だが、失った練習の年月は戻らない。本人の後年の説明では、十分な持久力がなく、第一線のバレリーナになる道を諦めざるをえなかったという。バレエそのものを捨てたのではない。身につけた姿勢や身のこなしを携えたまま、生活のためにロンドンの舞台の仕事へ向かった。
『ジジ』から始まった、予想外の仕事
ロンドンでのオードリーは、ミュージカルのコーラスとして出演し、英国映画でも小さな役を得ていた。主演女優として計画的に売り出されていた時期ではない。モンテカルロでの映画撮影の際、作家のコレットが彼女を見いだし、自作を舞台化する『ジジ』の主役に推した。1951年、オードリーはブロードウェイの舞台に立つ。
映画監督ウィリアム・ワイラーが『ローマの休日』のアン王女役に起用したのは、この舞台の成功を経たころだった。オードリーには演技の長い経歴も、ハリウッドでの確かな地位もない。それでも、王女が初めて街を自由に歩く場面には、彼女の身体の動きや目の配り方がよく合っていた。
受賞後も、彼女は一つの役柄にとどまらなかった。1954年の『麗しのサブリナ』では、運転手の娘がパリから戻り、見違えるほど洗練された姿になる。その衣装に関わったフランスのデザイナー、ユベール・ド・ジバンシィとの協働は、その後も長く続いた。映画の役をつくる仕事と、衣服の形を考える仕事が、彼女の姿のなかで結びついていった。
踊る姿と、追い詰められる姿
バレエで鍛えた身のこなしは、1957年のミュージカル『パリの恋人』で再び生きた。フレッド・アステアと踊る場面は映画の見せ場になった。一方、『尼僧物語』(1959年)で演じたのは、信仰と職務のあいだで苦しむ修道女だった。『ティファニーで朝食を』(1961年)のホリー・ゴライトリーは、自由奔放にふるまいながら、他者との距離をうまく測れない女性だった。
映画や写真には、洗練された服装と明るい笑顔が数多く残る。しかし役柄には、迷いや恐れを抱える人物もいた。1967年の『暗くなるまで待って』では、暗闇のなかで身を守ろうとする女性を演じ、これまでとは違う緊張感を画面に持ち込んだ。
映画の制作では、共演者や監督、衣装を手がける人びとと仕事を重ねた。夫のメル・ファーラーも俳優・監督で、彼女の仕事の相談相手だった。ただ、二人の結婚生活は続かず、やがて離婚する。
映画の出演を減らし、子どもと暮らす
1960年、メルとのあいだに長男ショーンが生まれた。1969年にイタリア人医師アンドレア・ドッティと再婚し、翌1970年には次男ルカが生まれる。この結婚も後に終わったが、オードリーは二人の息子と過ごす時間を大切にし、1960年代末からは映画への出演を大幅に減らしていった。
息子ショーンが2026年のインタビューで語った母の姿は、映画館のスクリーンとは距離がある。スイスやローマで育った彼は、家庭では母を世界的なスターとして意識していなかったという。十四歳のころ、家にあったフィルムを屋根裏で映し、初めて母の出演作をまとめて見た。母はときどき顔を出し、感想を聞いたそうだ。
家の屋根裏で初めて母の映画をじっくり見たというショーンの記憶からは、映画の世界と家庭の時間が別々に流れていた様子がうかがえる。オードリーは二人の息子を育てながら、引き受ける映画の仕事を減らしていった。
二度目の結婚が終わった後、オードリーはオランダ人俳優ロバート・ウォルダースと暮らすようになった。スイスでの日常を大切にしながら、やがて別の仕事のために海外へ出かけるようになる。
一日に十五件のインタビュー
1988年、オードリーは国連児童基金、ユニセフの親善大使になった。最初期の大きな仕事の一つがエチオピア訪問だった。長く続く干ばつと紛争によって飢饉に苦しむ地域へ赴き、食料を届ける事業などの現場を見た。その後、米国、カナダ、欧州の報道機関の取材に応じ、その数は一日十五件に及ぶこともあったという。
映画で名が知られていたことは、記者の関心を集める助けになった。しかし、訪問して話を聞き、見たことを人びとに説明するのは、映画に出演するのとは別の仕事だった。彼女はトルコでの予防接種、ベネズエラでの女性向け研修、バングラデシュの学校、スーダンの避難民キャンプなどを訪れた。ある場所で起こっている困難を、遠くの観客に届けるために移動を続けた。
オードリー自身は、戦後に食料や医療の支援を受けた経験を、ユニセフへの感謝と結びつけて語っている。親善大使として彼女が続けたのは、現地で見聞きしたことを、報道機関や政治家に自分の言葉で伝える仕事だった。
1992年にはソマリアにも向かった。紛争と飢餓のなかにいる子どもたちを見て、世界の関心を求める活動は、晩年の彼女にとって大きな仕事となった。そのころ、彼女自身の身体は病に侵されていた。
映画と、家族の記憶に残ったオードリー
オードリー・ヘプバーンは1993年1月20日、スイスの自宅で亡くなった。六十三歳だった。映画界ではその人道的活動が顕彰され、やがて世界の展覧会で彼女を写した写真が展示されるようになった。今も『ローマの休日』や『ティファニーで朝食を』の姿は何度となく見返されている。
ショーンが屋根裏に映した映画は、そのころすでに世界の多くの人が見た作品だった。家のなかの母と、映画館のなかの女優とは、同じ人の別々の姿だった。数多くの映画に出演したのは、主に1950年代から60年代だった。それから彼女は息子たちの成長を見守り、最後の数年には新たな仕事のために国外へ向かった。美しい一枚の写真の外側に、その長い時間がある。




