一人の人生を読む
撃たなかった理由を、何度も考える
大岡昇平は、フィリピンの戦場でアメリカ兵を撃たなかったと『俘虜記』に書いた。捕虜となり、帰国したあとに発表した、自身の戦争体験に基づく作品である。
なぜ撃たなかったのか。大岡はその理由を問い直し、刊行後も文章に手を入れた。作品のなかで、過去の自分の行動を説明する理由は一つに定まらなかった。
文学研究者の立尾真士は、改稿によって一つの「真実」が確定するのではなく、複数の「真実」が現れると論じた。同じ経験を、書き直すたびに別の角度から見つめることになったのである。
戦地へ送られた1944年、大岡は三十五歳だった。すでに妻があり、会社に勤め、長く親しんできたフランス文学があった。
フランス語を学び、会社で働く
大岡は1909年、東京の牛込に生まれた。父の貞三郎は相場師だった。少年時代から文学へ近づいていくが、その道は、すぐに作家としての職業へつながったわけではない。
青年期に大きな存在になったのが、文芸批評家の小林秀雄である。大岡は小林からフランス語を学んだ。その交友のなかで詩人の中原中也とも知り合う。大岡が京都帝国大学で学んだのはフランス文学で、特に十九世紀フランスの小説家スタンダールは、後年まで関心を寄せ続ける対象になった。
大学卒業後は国民新聞社に入り、のちに日仏合弁の帝国酸素で翻訳係として働いた。1943年には川崎重工業へ移っている。文学への関心を保ちながら、会社勤めを続ける年月だった。
1939年、大岡は上村春枝と結婚し、神戸で暮らした。1941年に太平洋戦争が始まってからも、勤務先と家庭のある生活を送っていた。1944年、東京へ単身赴任した大岡は教育召集を受け、そのまま臨時召集でフィリピンへ出征する。
ミンドロ島、捕虜、帰る場所
派遣先はフィリピンのミンドロ島だった。太平洋戦争の後半、米軍が島に上陸すると、大岡のいた日本軍も山中へ退いた。大岡は1945年1月に米軍の捕虜となり、野戦病院へ送られた。
その後、レイテ島の収容所へ移された。ミンドロは彼が戦場を経験した島であり、レイテは捕虜として滞在した島である。二つは彼の人生のなかで違う意味を持つ場所だった。
日本の敗戦後に帰国した大岡は、明石で生活を再開した。戦争へ行く前からの暮らしが、何事もなかったように続いたわけではない。やがて関東へ出て、1948年には鎌倉の小林秀雄の家に寄寓する。かつてフランス語を教えてくれた相手の家に、戦争から戻った大岡が身を寄せたのである。
小林は、従軍体験を書いてみるよう大岡に勧めたという。1948年に刊行された『俘虜記』には、戦闘、捕虜となるまでの経緯、収容所での日々が書かれた。翌1949年、この作品は横光利一賞を受け、大岡は作家として知られるようになる。
一つの戦争から、違う小説へ
戦場を経験した大岡は、次に同じ出来事を同じ形式で語ることだけを選ばなかった。
『野火』では、フィリピンの戦場で病み、孤立した兵士が、追い詰められた状況のなかをさまよう。主人公を動かすのは飢えや身体の苦しさであり、戦闘で功績を立てる物語ではない。大岡は自身の戦争経験を持っていたが、『野火』で書かれた行為をそのまま作者の実歴に重ねることはできない。彼は小説という形式を使って、兵士が置かれた極限を描いた。
一方で、1950年には『武蔵野夫人』を発表している。こちらは戦場の話ではなく、戦後の東京近郊に生きる人々の恋愛や夫婦関係を扱った作品である。後には『花影』も書いた。戦争が大岡の代表的な題材になったことは確かだが、書こうとした人間の生活は戦地の外にも広がっていた。
1961年には『花影』で毎日出版文化賞と新潮文学賞を受けた。その一方で純文学や国語の問題をめぐる論争にも加わり、翌年には大衆文学をめぐって議論した。戦争の記憶だけでなく、同時代の小説や言葉のあり方にも関わり続けていた。
自分が見なかったレイテ島を調べる
1967年、大岡は『レイテ戦記』の連載を始めた。1971年に刊行されたこの仕事は、彼自身の捕虜体験を中心に置く『俘虜記』とは大きく形が違う。
レイテ島は、大岡が捕虜となってから収容された場所でもある。だが『レイテ戦記』で追うのは、彼が一兵士として見た範囲をはるかに超えた戦闘の全体である。誰がどの部隊に属し、どこを動き、どのような戦闘が続いたのか。目の前の経験を思い出すだけで埋まる内容ではない。
刊行された本には、太平洋戦争の年表、陸軍部隊の編成表、参考書誌、地図まで付された。いくつもの資料を突き合わせて、個人の目には入らなかった戦場の広がりを記述しようとする仕事だった。
地図や編成表は、そこにいた一人ひとりの体験そのものではない。それでも、ミンドロ島で戦った大岡が、自分の見ていなかったレイテ島の戦闘を書くには、他者の記録を集める必要があった。年表や編成表の付いた『レイテ戦記』の姿に、体験記とは違う執筆の方法が表れている。
歴史小説では、作家の井上靖や海音寺潮五郎らと、史実をどう扱うかをめぐって論争した。資料と創作の関係を考える仕事は、戦争を描くときだけに限らなかった。
高知へ行き、手稿を残す
『レイテ戦記』を書き終えたあとも、大岡の仕事は続いた。
青年期に出会った詩人・中原中也の評伝を長年書き続け、1974年には『中原中也』で野間文芸賞を受けた。裁判を題材にした小説『事件』も発表し、1978年には日本推理作家協会賞を受ける。歴史上の事件に取材した小説にも仕事を広げていった。
1984年には、『堺港攘夷始末』のために高知を訪れている。幕末の事件を調べるにあたり、関連する場所を自分で歩き、取材した。戦争が終わって約四十年。七十代半ばの大岡が、今度は別の時代の人間が残した出来事の跡を追っていた。
1987年に出た『証言その時々』の目次には、「なぜ戦記を書くか」「一兵卒として」「『レイテ戦記』を直す」といった題が並ぶ。戦争と記録の問題は、晩年にも彼の仕事から消えていなかった。それと並んで、戦争以外の人物や事件への関心も続いていた。
大岡は1988年12月25日に亡くなった。七十九歳だった。
神奈川近代文学館には、生前の1986年から、大岡や春枝らによって原稿や手紙、書き込みや訂正の入った本、文学研究のノートなどが寄贈されてきた。これらは「大岡昇平文庫」として収められ、点数は一万三千点を超える。そこには『俘虜記』や『レイテ戦記』の原稿のほか、中原中也について調べたノートもある。
若いころに学んだ文学、フィリピンでの経験、見ていない戦闘の記録、晩年に訪ねた歴史の現場。大岡は違う題材へ移っても、読むことと調べること、書き直すことを続けた。文学館に残る原稿やノートには、完成した本には見えない、その手の動きも残っている。




