一人の人生を読む
ハノイの家で鳴った音楽
2018年、ベトナムの首都ハノイで、取材者のジョン・フラーが作家バオ・ニン(Bảo Ninh)の家の呼び鈴を押した。鳴ったのは、ベートーヴェンの「エリーゼのために」だった。居間にはお茶と果物が用意されていた。フラーの記録では、話をするバオ・ニンはクッションを抱え、脇に置き、また抱えていた。
そのころの彼は、膀胱の腫瘍を切除する手術を受け、自宅で回復を続けていた。六十代半ばの彼は、医師から飲酒を控えるよう言われ、酒を断った。手術後は、以前のように先延ばしにしてはいられないと感じ、書くことにも以前より力を入れるようになったという。新しい長編を書く構想はあったが、その実現を約束することはしなかった。短編なら毎日書いている、と彼は話した。
取材者が向かい合っていたのは、『戦争の悲しみ』という一冊の小説で世界に知られるようになった作家だった。だが本人の日々には、家庭があり、病後の生活があり、まだ書かれていない文章があった。
ハノイの家を訪れたこの取材は、終戦から四十年以上が過ぎた年に行われている。バオ・ニンが戦争を経験したのは、まだ十代のころだった。
十七歳で軍隊へ
バオ・ニンは1952年に生まれた。本名をホアン・アウ・フオン(Hoàng Ấu Phương)という。父のホアン・トゥエ(Hoàng Tuệ)はベトナム語を研究する言語学者で、少年はハノイで育った。
当時のベトナムは、北と南に分かれていた。北には社会主義を掲げる政府、南にはアメリカが支援する政府があり、両者は戦争を続けていた。アメリカ軍も南側に大規模に派遣され、戦場は各地へ広がっていく。のちに日本で「ベトナム戦争」と呼ばれる戦いである。
1969年、バオ・ニンはまだ十代のうちに北ベトナム軍へ入った。中部高原などの前線で軍務につくことになる。1969年はアメリカ軍の兵力が大きかった時期で、その後アメリカ軍が撤退しても、南北の戦いは続いた。
戦争末期、彼は所属部隊で本を管理する役目も引き受けていたと、後年語っている。北部から前線へ送られてくるのは食料や武器だけではなかった。兵士に読ませるための書物も届いた。自軍の勇敢さをたたえる小説があったが、バオ・ニンの記憶では、兵士たちはそうした本にあまり手を伸ばさなかった。
よく読まれたのは、ロシアの作家イワン・ツルゲーネフ(Ivan Turgenev)の短編を集めた『猟人日記』の翻訳だったという。戦争の勝利や英雄を描く物語ではない。そこには、村の人間や土地、暮らしのなかで出会う人々がいた。何度も読まれ、本は傷んでいったと彼は回想した。
同じ兵士たちのことを書いた本でも、彼らは自分たちをほめたたえる物語には手を伸ばさなかった。バオ・ニンは後年、兵士を美化した小説を厳しく批判している。戦場で読まれ、擦り切れた『猟人日記』の記憶は、彼がどんな小説を読者に届けたかったのかを考える手がかりになる。
戦争が終わってからの仕事
1975年4月、南ベトナムの政府が崩壊し、長く続いた戦争は終わった。バオ・ニンも戦場から離れたが、すぐに平穏な暮らしへ戻れたわけではなかった。
2023年、彼はアメリカ紙のインタビューで、終戦後のおよそ一年間、南部で亡くなった人々の遺体を集めて埋葬する仕事をしたと話している。遺体は北ベトナム軍の兵士に限らなかった。南側の兵士も、戦闘に巻き込まれて亡くなった民間人もいたという。
本人はその仕事によって、戦争が残した破壊の規模を、六年間にわたる兵士としての経験よりも痛切に感じたと語った。
銃を持って戦う期間が終わっても、残された死者を弔い、土地を片づける人々の仕事は続く。前線にいた彼は、戦争の終結を、死者を収容する仕事を通してもう一度経験することになった。
1976年に除隊した後、ハノイへ戻った。帰還した元兵士に待っていたのは、やはり毎日の暮らしだった。本人によれば、1979年から1986年ごろまでは、自分と家族が生活するために働いた。作家になることは、高校生のころにも兵士のころにも考えていなかったという。
父ホアン・トゥエは、その息子に文学を学ぶ道を勧めた。バオ・ニンは1986年ごろ、ハノイのグエン・ズー創作学校へ進む。グエン・ゴック(Nguyên Ngọc)やホアン・ゴック・ヒエン(Hoàng Ngọc Hiến)らのもとで学び、翌年ごろから本格的に文章を書き始めたと回想している。
この時期、ベトナムではドイモイと呼ばれる改革が始まっていた。経済だけでなく、文学でも現実の暮らしをそれまでとは違う言葉で描こうとする動きが生まれていた。父に背中を押された三十代半ばの元兵士は、そこで自分の経験を文学の言葉へ変え始める。
一人の帰還兵を通して書いたこと
やがて発表された長編は、初め『愛の宿命』(Thân phận của tình yêu)という題でも知られ、のちに『戦争の悲しみ』(Nỗi buồn chiến tranh)として広く読まれた。
主人公はキエンという、北側の軍に従軍した帰還兵である。キエンは戦争から戻ったあとも、戦場で見た光景や、戦争によって変わってしまった人々との関係に引き戻される。恋人フォンとの記憶も、現在の生活も、書こうとしている原稿も、年代順には収まらない。
小説は、一つの戦闘から次の戦闘へと進んで勝利で終わる形を取らない。帰ってきた男の頭に、遠い日の場面が突然戻ってくる。若いころに出会った人の記憶が、戦争の後の暮らしへ割り込む。キエンが書くという行為自体も、物語の一部になる。
バオ・ニンがこうした小説を書けた背景に、自分の兵役経験があったことは確かである。だが、主人公をそのまま本人として読む見方には、作家自身が反対している。2018年のインタビューでは、キエンと自分の共通点は兵士だったことくらいだと述べた。
彼は戦争を経験した元兵士であり、キエンも元兵士である。しかし、キエンの記憶や行動を一つずつ作者自身の体験に置き換えることはできない。バオ・ニンは、自分の生きた時代を材料にしながら、史実の記録とは違う小説を書いた。
1990年から翌年ごろに国内で世に出たこの小説は、議論を呼んだ。バオ・ニンが前線で見た、兵士たちに配られる戦争文学には、勇敢な兵士と勝利を描くものが多かった。ところがキエンの物語は、勝利のあとにも消えない死者の記憶や、かつての恋人との隔たりを描く。先輩作家たちが印刷費を出し合い、ハノイで作品が読まれていったという経緯もある。一方で、戦争の描き方には国内で批判が寄せられ、刊行にも制約が生じた。評価と反発は一つの国のなかに並んでいた。
1994年には英訳が刊行され、国外にも読者が広がった。しかし本人は後年、もともとベトナムの読者、とりわけ兵士のために書いた作品だったと語っている。英語訳には、自分の書いたベトナム語の響きが正しく伝わるかという不安があったという。海外で代表作と呼ばれる一冊は、作者にとって、自分の言葉から離れていく一冊でもあった。
一冊の成功のあと、書き続ける
海外で知られるようになったバオ・ニンには、外国の記者や作家が会いに来た。2006年、イギリス紙の取材では、『戦争の悲しみ』の成功が次に書くことを簡単にしたとは言えない様子が伝えられた。本人は、作品への評価を意識するようになったことが執筆に影響したと語っている。
代表作に並ぶ新しい長編小説は長く刊行されなかった。それでも文学誌の仕事に関わり、2013年には短編集、2016年には随筆集を出した。2018年の取材で彼は、短編は毎日書くが、出版されるかどうかは別だと話している。
取材者が毎日書いている短編の題材を尋ねると、バオ・ニンは最初「戦争」と答え、すぐに言い直した。戦争のあった時代、つまり自分が生きた時代について書いているのだという。その違いは小さく見えて、彼には重要だった。戦争は彼が選んで生まれた題材ではなく、彼の人生が置かれていた時間でもあった。
2023年、短編をまとめた英語版『真夜中のハノイ』(Hanoi at Midnight、邦題仮訳)が刊行された。長編一作しか知らなかった海外の読者にも、幾年にもわたって書かれたほかの物語が届くようになった。
一冊の本が作者の手を離れてから
2025年のベトナム紙の取材で、バオ・ニンは、戦争を経た自分たちの世代と、戦争を知らずに生まれた世代が同じ考え方を持つわけではないことを語っている。かつての戦友を思う一方、帰ってきた人間には、その後の日々を生きる仕事もある。
2025年11月、『戦争の悲しみ』はベトナム政府による文学・舞台芸術の優れた50作品の一覧に選ばれた。ところが翌2026年1月、文化・スポーツ・観光省はその選定を取り消した。省によれば、作者から書簡を受け取り、本人の希望を尊重して決めたという。これは公的な顕彰の取り消しであって、小説の出版を禁じる決定ではなかった。
長編が世に出てから三十年以上が過ぎても、その作品をどう読むか、どう位置づけるかは、なお変化している。2018年の取材で、バオ・ニンは主人公キエンと自分を重ねる見方を退け、文学は歴史や政治そのものではないと語った。2025年には、いったん発表した作品は人生の一時期をなすもので、あとから繰り返し直すより、生き続け、書き続けるしかないという趣旨を話している。
1975年、まだ若い彼は死者を収容する仕事をしていた。それから暮らしのために働き、父に勧められて学び、初めて長い物語を書いた。その小説が本人から離れて外国語で読まれ、賛否を呼ぶあいだにも、ハノイの家には毎日の生活が続いた。
2018年、ハノイの居間で彼は、出版されるかどうかとは別に毎日書いている、と話していた。戦争を経験してから半世紀近くが過ぎても、バオ・ニンの机の上では、書くことが続いていた。




