一人の人生を読む
「下京や雪積む上の夜の雨」。雪の積もった京都の下京に、夜の雨が降る。野沢凡兆の句だが、冒頭の五音「下京や」が決まるまでには、松尾芭蕉も加わっていたという。
弟子の向井去来がのちに『去来抄』に記したところでは、凡兆の句には当初、冒頭の五音がなかった。芭蕉や仲間たちが案を考え、芭蕉が強く推したのが「下京や」だった。ところが凡兆は、すぐには納得しない。芭蕉は、これ以上の言葉があるなら自分はもう俳諧を語らない、とまで言い切ったという。
去来の回想からは、芭蕉の提案に凡兆がすぐには同意せず、芭蕉が自分の案を強く推したことが伝わってくる。宗匠の仕事には、自分の句を詠むだけでなく、人の句を一緒に考え、評することも含まれていた。
若い主君と、句を作る
松尾芭蕉は1644年、伊賀国上野、現在の三重県伊賀市に生まれた。松尾与左衛門の次男で、幼いころは金作、成長して宗房と名乗った。父が亡くなったのは、芭蕉がまだ少年だった1656年のことである。
十代の終わりごろ、宗房は藤堂新七郎家の若い良忠に仕えるようになった。良忠は芭蕉より少し年上で、蝉吟という俳号を持つ俳諧の愛好者だった。二人は同じ文学の仲間でもあり、京都の北村季吟から俳諧を学んだと伝えられている。奉公先での付き合いが、俳諧を学ぶ機会にもなっていた。
当時の俳諧は、一人の作者が短い句を書くだけのものではなかった。複数の作者が句を付け合う連句の営みがあり、その最初の句である発句が、今日の俳句につながっていく。気の利いた言葉を作るだけでなく、相手の句を受け取り、次をどう付けるか考える文芸だった。宗房はそうした場で経験を重ねていく。
1666年、良忠が若くして死んだ。宗房はやがて藤堂家での奉公を離れるが、いつ、どのような事情で去ったかには諸説がある。宗房は、奉公先の若殿と句作の仲間を同時に失った。
宗房はその後も俳諧を続け、1672年には『貝おほひ』という発句を競わせる作品を伊賀上野の天満宮に奉納した。そのころ、江戸へ出る。故郷で句を作っていた男は、多くの俳人が集まる都市へ活動の場所を移した。
江戸で暮らし、深川へ移る
江戸で宗房は桃青の号を用いるようになり、俳諧の会に参加した。俳諧は武士や町人のあいだに広がり、互いの句を評し、連句を興行することが仕事にもなった。1670年代後半には宗匠として活動する。句を作る才能だけでなく、他人の句を受け止め、選び、評する役割を引き受けたのである。
江戸で宗匠として活動していた芭蕉は、1680年、隅田川の東側にある深川の庵へ移った。弟子が植えた芭蕉の株にちなみ、その住まいは芭蕉庵と呼ばれるようになった。「芭蕉」という名は、この暮らしの場所と結びついている。
だが、その庵も長くは続かなかった。1682年、江戸の大火で焼け失せる。芭蕉は甲斐に身を寄せたのち、再び庵を持つ。住まいを失っても、芭蕉は俳諧を続け、弟子たちとの付き合いも保った。
そのころから芭蕉は、江戸にとどまらず各地を歩く機会を増やしていく。1684年の旅では故郷の伊賀へ帰り、母の墓を訪ねた。途中の名古屋では、土地の俳人たちと連句を作っている。そこから生まれた『冬の日』は、旅の経験が土地の仲間と作品を作る時間につながっていたことを物語る。
墓参りのために帰る故郷も、土地の俳人と句を作る場も、一つの旅程の中にあった。芭蕉はその後も各地を旅し、訪れた土地やそこで会った人々を作品に書き留めていく。
曾良と、奥へ向かう
1689年、芭蕉は門人の曾良とともに江戸を発った。旧暦三月二十七日のことである。二人は東北から北陸を巡り、美濃の大垣へ至る長い旅をした。この道行きが、後に『おくのほそ道』のもとになる。
旅を一緒にした曾良は、道中の事実を記録していた。芭蕉もまた旅の経験を言葉にしたが、同じ道を歩いたからといって二人の記録が一致するわけではない。『おくのほそ道』には、実際の旅の日記とは異なる構成や表現がある。そこに書かれた景色や出来事は、芭蕉が後から文章として選び、並べたものでもある。
芭蕉が訪ねようとしたのは、名所や風景だけではなかった。西行や能因など、以前の歌人たちが歌に残した土地を、自分の足で確かめようとしていた。芭蕉にとって旅は、先人の言葉を実際の土地で読み直す機会でもあった。
平泉の高館で詠んだ「夏草や兵どもが夢の跡」は、かつてこの地で栄えた奥州藤原氏や源義経を思い起こす句である。芭蕉は、目の前に茂る夏草に、その土地の歴史を重ねていた。
とはいえ、この旅で芭蕉が一冊の『おくのほそ道』を完成させたわけではない。大垣に着いたあとも彼は旅を続け、人を訪ね、句を作った。作品が成立するのは、それから数年後、1694年のことである。
旅が終わってからの言葉
1689年の旅の後、芭蕉はすぐ江戸へ落ち着かず、近江や京などで時を過ごした。大津の近くには交流を続ける門人がおり、彼はそこで俳諧や文章の仕事を進める。『幻住庵記』は、この時期の暮らしから生まれた文章だった。
その中で芭蕉は、かつて仕官を望んだことや、仏道へ入ることを思ったことにも触れ、結局は俳諧の一筋につながって生きてきた、と振り返っている。そこには、俳諧以外の生き方を考えた日々も記されている。
芭蕉はこのころ、発句や連句だけでなく、散文の書き方にも力を注いでいた。『幻住庵記』のように暮らしの場所と自分の半生を結ぶ文章は、その試みの一つである。弟子たちに宛てた書簡にも「俳文」をめぐる関心が見えることを、後世の研究は指摘している。
この時期、去来や凡兆らが編集した俳諧集『猿蓑』も刊行された。冒頭の凡兆の句は、そこに収められた一つである。芭蕉は自身の文章を書き進めながら、門人たちの句作にもかかわり続けていた。
1692年、芭蕉は江戸の新しい芭蕉庵に入った。このころも『おくのほそ道』の執筆を続けていた。奥羽への旅立ちからすでに何年も経ち、曾良との旅は過去になっていた。芭蕉は時を置いて出来事を選び、文章を整えていた。
刊行を見ないまま
1694年、芭蕉は伊賀に帰り、京や大津を訪ねたのち、大坂へ向かった。そこで病を得て、旧暦十月十二日(現在の暦で十一月二十八日)に亡くなった。五十一歳、当時の数え年でのことである。遺言によって、近江の義仲寺に葬られた。
その年、『おくのほそ道』は成立していた。芭蕉は晩年に整えた稿を、能筆の素竜に清書させた。現存する重要文化財の一冊は、芭蕉が所持し、遺言によって去来に渡ったと伝えられるその清書本である。芭蕉自筆の本文が一冊として伝わっていない今、成稿当時の姿を知る重要な手がかりになっている。
『おくのほそ道』が刊本として世に出たのは、芭蕉の死後、1702年頃のことである。彼は自分が歩いた道を文章にしたが、その本が刊行されるところまでは見届けられなかった。
1689年に曾良と江戸を発ってから、刊行までおよそ十三年。旅は数か月で終わったが、書かれ、清書され、読者の手に届くまでには、それよりもずっと長い時間がかかった。




