一人の人生を読む
「若紫」はこのあたりに
1008年11月1日。中宮彰子が産んだ皇子の生後50日を祝う宴で、藤原公任という貴族が、ひとりの女房に声をかけた。「このわたりに若紫や候ふ」。『源氏物語』に登場する少女・若紫(後の紫の上)はこのあたりにいるか、と尋ねたのである。
声をかけられたのは、その物語を書いていた紫式部だった。出来事を記したのは、ほかならぬ彼女自身の『紫式部日記』である。この言葉は、『源氏物語』に言及した現存最古の記録として知られる。物語の登場人物の名が、作者のいる宮廷の宴席にまで入り込んでいた。
紫式部は、光源氏という架空の貴公子と、その周囲の人々の生涯を長大な物語に描いた。ところが作者自身については、本名も正確な生没年も分からない。「紫式部」という呼び名も、物語に登場する紫の上に由来するといわれる。自分の名を後世に伝えるより先に、彼女が生み出した人物の名が宮廷で口にされていたのである。
父と越前へ
紫式部の父、藤原為時は漢学に通じた貴族だった。親族にも和歌や学問に親しむ人が多く、紫式部は漢籍や和歌の素養を身につけて育ったと考えられている。当時の貴族社会では、歌を詠み、手紙を交わすことが人間関係の一部だった。文学は、宮廷で暮らす人々の生活と地続きにあった。
父が越前守に任じられると、紫式部も都を離れた。現在の福井県にあたる越前国府で、一年余り暮らしたとされる。父の任地で暮らしたのち、紫式部は都に戻った。
都に戻った後、紫式部は藤原宣孝と結婚し、娘の賢子をもうけた。賢子は後に「大弐三位」の名で知られる歌人となる。しかし宣孝はまもなく亡くなり、紫式部は幼い娘を持つ母として夫との死別を経験した。
『源氏物語』は、夫の死後に書き始められたと考えられている。娘との暮らしが続くなか、長い物語の執筆が始まった。そして彼女の仕事場は、やがて天皇の后が暮らす宮廷にも広がっていく。
中宮に仕える書き手
紫式部が仕えることになったのは、藤原道長の娘で一条天皇の中宮となった彰子だった。中宮は天皇の后の一人で、女房はその身近で手紙の取り次ぎや儀式への対応などにあたる女性たちである。紫式部も、こうした人の行き来と言葉のやり取りのなかで暮らした。
1008年、彰子は皇子を産んだ。道長にとっても大きな出来事で、出産後は祝いの儀式や人々の訪問が続いた。『紫式部日記』は、その様子を中宮に仕える側から伝えている。たとえば10月17日の夜には、昇進の礼を彰子に伝えようとした藤原斉信と藤原実成が、宮の内侍と紫式部を訪ねた。中宮と訪問者を結ぶ役目を、彼女たちが担っていたことがうかがえる。
その一方で、彼女の物語も宮廷の人々の手を渡っていた。日記には、物語を清書し、冊子に仕立てる作業を女房たちが進める場面が残る。書かれた物語は、別の手によって写され、綴じられて読まれていく。作者の目の届くところで、作品が一冊の形を得ていくこともあった。
儀式に仕え、来客に応じ、他の女房たちと働く日々。紫式部はその宮廷の様子を、物語とは別に『紫式部日記』にも書き残した。
光源氏の物語が、次の世代へ続く
『源氏物語』は全54帖からなる。光源氏の恋愛や宮廷での栄達から始まるが、その人生には別れや失意、老いも訪れる。物語はさらに、源氏がいなくなった後の世代へと進んでいく。
藤壺、葵の上、紫の上、明石の君、六条御息所。源氏をめぐる女性たちにも、それぞれ異なる事情や望みがある。ある人との結びつきが、別の人に苦しみをもたらすこともある。作者は一人の貴公子を中心に置きながら、その周囲にいる人々の立場を次々と書き分けていった。
1008年の公任の呼びかけは、そうした作品と宮廷の距離をよく表している。架空の少女「若紫」の名を出せば、作者に通じると公任は考えたのだろう。もっとも、54帖がいつ、どの順序で出来上がったのかは定かでない。出仕と執筆の時期が重なりながら、物語は周囲に知られるようになっていった。
日記には、厳しい声も残る
『源氏物語』で多くの人物を描いた紫式部は、日記でも周囲の人々を見つめていた。ただし、そこに書かれるのは架空の貴族ではなく、ともに宮中で過ごす女房たちである。祝いの華やかさを記す文章のなかに、働きぶりや人柄に対する厳しい批評も現れる。
研究者の山本淳子は、紫式部が女房たちを評する際に、家柄や華やかな姿よりも中宮のために実際の役目を果たすことを重んじていた、と読んでいる。儀式の場に仕える女房の仕事を、自分も引き受けていた紫式部。その文章からは、同じ宮廷にいる相手への遠慮ばかりではない声が聞こえる。
『枕草子』を書いた清少納言についても、紫式部は日記のなかで辛辣に評した。清少納言は彰子とは別の中宮に仕えた女性である。日記には、同じ時代に文章を書く女性へ向けた、紫式部自身の厳しい評価が残っている。
光源氏たちの思いや行動を物語にすることと、身近な人々を日記に書き留めることは、同じ仕事ではない。それでも、実際に人と交わり、言葉を聞き、相手を評する一人の女性が、あの長い物語の作者でもあった。『紫式部日記』は、作品だけでは知ることのできない書き手の暮らしを、断片的に伝えている。
月の光のなかの紫式部
後の時代、紫式部が滋賀県の石山寺にこもり、湖に映る月を見て『源氏物語』を書き始めたという話が広まった。『石山寺縁起絵巻』にも描かれた、ひとりで筆を執る作家の姿である。だが、これは後世に伝わった起筆の物語だった。
『紫式部日記』が伝える宮廷には、人の出入りや儀式があり、物語を書き写す人々もいた。一方、後世の人々は月を眺める紫式部を絵に描き、その姿を思い浮かべた。伝えられた作品が大きくなるにつれて、作者の姿もまた新しく描かれていった。
紫式部がいつ、どこで、どのように生涯を終えたのか、確かな記録は乏しい。『源氏物語』は写本として読み継がれ、『紫式部日記』の場面は鎌倉時代に絵巻にもなった。その絵に描かれた宮廷の人々は、紫式部と同じ時代に描かれたものではない。
本人の顔も本名も、最後の日々も、ほとんど分からない。それでも1008年の宴では、彼女が書いた少女の名が呼ばれていた。残された長い物語には、光源氏や紫の上をはじめ、多くの人々の生涯が今も息づいている。




