一人の人生を読む
1891年1月、深く頭を下げなかった
1891年1月9日、29歳の内村鑑三は、第一高等中学校の教育勅語奉読式に出ていた。前年に公布された教育勅語に敬意を示す儀式で、教員たちが順に礼をしていく。内村の番が来ると、彼は頭をわずかに下げた。しかし、周囲と同じような深い礼はしなかった。
この行動は「不敬」と受け取られ、学校の内外で強い批判を呼んだ。内村自身が後に使った言葉は「拒否」よりも「躊躇」に近かった。彼は礼を宗教的な礼拝そのものとは考えておらず、儀式への参加を最初から拒んでもいない。問題が大きくなった後には、改めて礼をすることにも同意したが、その時は病床にあり、同僚が代わって行った。
それでも、事件は元には戻らなかった。翌月、内村は学校を離れる。
この場面では、内村が生涯大切にした二つのもの――イエスへの忠誠と、日本への愛着――が、国家の儀礼の中で同時に試された。どちらかを簡単に捨てられないからこそ、その後も同じ問いは形を変えて戻ってくる。
札幌で、「外国の宗教」を自分たちのものにする
内村は1861年3月23日、江戸・小石川に生まれた。父・宜之は高崎藩士だった。明治維新のときにはまだ幼い子どもである。武士の家に生まれた少年は、身分制度だけでなく、国の制度そのものが大きく作り直される時代に育った。
1877年、16歳で札幌農学校の第2期生となる。同級生には新渡戸稲造や宮部金吾がいた。学校には、初代教頭ウィリアム・S・クラークが残したキリスト教的な影響があり、内村もその流れの中で信仰に触れる。翌1878年、宣教師M・C・ハリスから洗礼を受けた。
当時、キリスト教は外国から来た宗教と見られていた。札幌の若い信徒たちは宣教師から教えを受けながらも、教会の運営は自分たちで担おうとした。内村は後年、仲間とともに教会を支えた経験を誇りをもって振り返っている。
洗礼の後も、アメリカで信仰を考え直す
札幌農学校を出た内村は、開拓使や農商務省の仕事に就いた。水産関係の調査にも携わり、科学を使って国に役立つ職業を持っていた。しかし1884年、23歳で官職を辞し、私費でアメリカへ渡る。
渡米前、内村は浅田タケと結婚したが、二人の結婚生活は短期間で終わった。内村家が重んじた家族のあり方と、教育を受けて社会で活動することを望んだタケの生き方には食い違いがあったと、後世の研究は指摘している。
渡米費用について、内村は後年、家族の犠牲と自分の蓄えで工面したと書いた。自伝では、信仰上の苦しさに加えて、「まず人間に、次に愛国者に」という趣旨の言葉で、外国で学んだものを日本へ返したいという思いを記している。
アメリカではペンシルベニアの慈善施設で働いたのち、アマスト大学へ進んだ。大学総長のJ・H・シーリーとの出会いは、内村がキリスト教をどう信じるか考え直すうえで大きかった。札幌ですでに洗礼を受けていた内村は、アマスト時代に自分の信仰が大きく変わったと後年の自伝で振り返り、その変化には長い時間がかかったと記している。1887年、内村は大学を卒業した。
国外へ出た経験は、キリスト者であることと日本人であることを、借り物ではない言葉で考え直す機会にもなった。
不敬事件で、教職から言葉の仕事へ
帰国後の内村は複数の学校で教え、1890年に第一高等中学校の嘱託教員となった。そこで起きたのが、冒頭の不敬事件である。
事件後、内村は強い批判を受け、病気にもなり、教職を離れた。この頃には妻かず子の死にも直面している。学校という立場と、家庭の一員を相次いで失った。
その後、内村の仕事の中心は文章へ移っていく。『基督信徒のなぐさめ』『求安録』を書き、1894年には英語で『日本及び日本人』を刊行した。翌1895年には、自分がどのようにキリスト者になったかを英語でたどる『余は如何にして基督信徒となりし乎』を出版する。
1891年の出来事によって、国家との関係が一度で決着したわけではない。むしろ教室を失った後、内村は本と雑誌と新聞を通して、より広い社会へ話しかけるようになった。
日清戦争を支持し、その判断を変えた
内村の戦争観には、1890年代から1900年代にかけて大きな転換がある。
1894年に日清戦争が始まったとき、内村は日本側の戦争を支持した。日本を文明や自由の側に置き、清国との戦いに道義的な意味を認めたのである。
ところが戦争後、内村の見方は変わっていく。彼はしだいに、日清戦争を、日本人の精神的な崩壊をもたらした帝国主義的な企てとして捉えるようになった。1897年に『万朝報』へ入ってからは社会問題について論じ、足尾銅山の鉱毒問題をめぐる反対運動にも関わった。
そして1903年、日露戦争へ向かう空気が強まるなかで、内村は非戦を主張する。新聞社の路線と合わなくなり、同僚の幸徳秋水、堺利彦らと『万朝報』を退社した。
1894年に戦争を支持した内村は、約10年後には戦争に反対して職場を去った。変わったのは愛国心の有無ではなく、その愛国心から国家の判断をどう評価するかだった。祖国を愛することと国家の決定を支持することは、彼の中で同義ではなくなっていった。
教会制度の外で、雑誌と講義によって集まる
社会問題や戦争について発言する一方で、内村は聖書を学びたい人たちに向けた活動も続けていた。
1898年に『東京独立雑誌』を創刊し、1900年9月には『聖書之研究』を始めた。翌1901年には『無教会』を刊行した。内村は、特定の教派に属したり、牧師の指導を受けたりしなければ信仰を持てないとは考えなかった。教会に所属しなくても、雑誌を読み、講義に通って聖書を学べるようにした。
札幌時代、内村たちは自分たちで教会を運営しようとした。それから二十年以上がたち、内村は教会に所属しない人にも聖書を学ぶ機会を開いていた。
『聖書之研究』は内村の死まで30年近く刊行され、講義にも多くの人々が集まった。
娘ルツ子の死、そして第一次世界大戦
1912年、内村は娘ルツ子を亡くした。復活や来世の問題は、父である内村自身の喪失と結びついた。死んだ人と再び会えるのか。その問いは、内村の聖書理解の中で以前より切実なものになっていった。
再臨思想へ向かうもう一つの大きな背景が、数年後の第一次世界大戦だった。キリスト教国同士が大規模な戦争を続け、やがて内村が長く特別な期待を寄せていたアメリカも参戦した。
国家が進歩し、国際制度が整えば平和へ近づけるという期待を、内村は次第に持てなくなった。1918年から再臨運動へ進み、恒久的な正義や平和の完成を、人間の制度だけに託さず、キリストが再び地上に来るという「再臨」に求めるようになる。
再臨を語りながら、講義と雑誌を続ける
1918年から翌年にかけての再臨運動は、同時代のキリスト教界で論争を起こした。海老名弾正や富永徳麿は、身体を伴う復活や目に見える再臨、聖書を文字どおりに読む姿勢を強く批判した。内村の終末論は、当時のキリスト教者に広く共有された考えではなかった。
論争が落ち着いた後も、内村は『聖書之研究』と聖書講義を続けた。研究によれば、1920年代の講義には500人から800人ほどが集まり、雑誌も3000部を超え、4000部に達する時期があった。1928年には札幌へ赴いて第6回札幌伝道を行い、大阪や函館でも講義や集会を開いている。
再臨に重心を移した後も、内村は政治的な判断をやめたわけではない。この時期にはシオニズムを支持した。後世の研究は、その支持に反帝国主義的な意図を認める一方、パレスチナの先住住民の権利を視野に入れられていなかったと指摘している。
書き、教え、人を集める活動が続くほど、晩年には別の問題が近づいた。自分がいなくなった後、この集まりを誰が、どの形で継ぐのかという問題である。
後継者を置かず、終刊と解散へ
1920年代後半、内村は老いと病気を意識しながら、自分の仕事を誰がどう継ぐのかを考えるようになる。その中心にいたのが、1923年から助手として講演や執筆を支えていた塚本虎二だった。周囲からも、有力な後継者の一人と見られていた。
しかし1929年、その関係は壊れる。同年5月、内村は塚本に、自分の死後は『聖書之研究』を終刊し、集会も解散する意向を伝えた。秋から対立が深まり、12月には塚本を助手から解任する。制度を作らない無教会にとって、創始者がいなくなった後をどう迎えるかは、思想ではなく現実の問題になった。
二人の対立は、一つの原因だけでは説明できない。研究では内村側の誤解も指摘されている。病床の内村も、独立した塚本も後に和解を望んだとされるが、再会は実現しなかった。
1930年3月28日、内村は69歳で死去した。4月6日には内村聖書研究会が解散し、『聖書之研究』も同月の357号で終刊する。弟子たちは一人の後継者のもとへ集まらず、それぞれ別の雑誌や集会を始めていった。
「二つのJ」は、最後まで一つにならなかった
内村が生涯抱えた「二つのJ」、イエスと日本は、最後まで一つの公式にはならなかった。不敬事件では躊躇し、日清戦争では一度支持した判断を変えた。教会制度の外で人を集め、晩年には再臨を語りながら講義と雑誌を続けた。そして死の前年には、長く支えた塚本虎二との関係も壊れた。
国家、教会、新聞、自分自身の過去の判断。内村は、そのどれか一つに答えを預けたままにはしなかった。そのために考え直し、時には衝突し、関係を失うこともあった。
「二つのJ」は、信仰と愛国心を両立させる完成した答えではない。二つをともに捨てなかった内村が、その間で何度も判断を迫られたことを示す言葉として、生涯の最後まで残った。




