一人の人生を読む
1826年、甥のために医師を求めた
1826年8月、55歳のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)は、医師カール・フォン・スメタナに急いで助けを求めた。甥のカールが自分を銃で撃ち、命は助かったものの、治療が必要だった。
カールは、1815年に亡くなった弟カスパールの息子である。父を失ったとき9歳だった甥を、ベートーヴェンは自分が育てようとした。それから母ヨハンナとの後見争いが何年も続き、学校や生活にも深く関わってきた。
だから、1826年の急報は、突然始まった関係の記録ではない。ベートーヴェンが11年にわたってカールを守ろうとし、同時にその生活を強く決めようとしてきた関係が、危機に達したときの記録だった。
1826年の危機を理解するには、カールとの11年だけでなく、ベートーヴェン自身が人との距離をどう経験してきたかまでさかのぼる必要がある。25年前、彼は友人への手紙に、聞こえないことを知られるのが怖くて人の集まりを避けていると書いていた。
1801年、友人に耳のことを書いた
ベートーヴェンは1792年に故郷ボンを離れ、ウィーンへ移った。ピアニストとして演奏し、作曲し、教え、作品を出版しながら活動を広げていく。1801年には、その生活を聴覚の異変が揺らし始めていた。
1801年6月、30歳のベートーヴェンは、ボン時代からの友人フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラーへ長い手紙を書いた。仕事や収入の話をしたあとで、長く隠してきた耳の不調を打ち明けている。
問題は、音が聞こえにくいことだけではなかった。人の声を聞き取れず、それを相手に悟られることが恥ずかしい。だから人の集まりを避ける。友人への手紙には、聴覚の悪化が社会生活そのものを狭め始めていたことが書かれている。
翌1802年、ウィーン郊外のハイリゲンシュタットで、兄弟宛ての長い文書を書いた。のちに「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる文書である。そこでは、人から退いていく苦しさと絶望を記し、自ら死ぬことを考えたことにも触れた。それでも芸術への思いが、自分を生へ引き止めたとも書いている。
聴覚障害の原因は、現在まで一つに確定していない。本人の手紙からは、1801年の時点で「聞こえない身体」と「人とどう付き合うか」が同じ問題になっていたことが分かる。
ウィーンに残るための契約
人との関係は、気持ちの支えだけではなく、仕事を続ける条件でもあった。
1809年、ベートーヴェンにはウィーンを離れ、カッセルで職を得る可能性があった。そこでルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、キンスキー侯爵の三人は、彼をウィーンにとどめるため、年4,000フローリンを支払う契約を結んだ。
これは、ベートーヴェンが宮廷に一生雇われる音楽家とは違う働き方を広げていたことを示す一方、その自由が誰とも無関係に成り立っていたわけではないことも示している。レッスン、演奏、出版収入に加え、パトロンの資金が活動を支えた。しかも年金は通貨価値の低下や支払いの問題に見舞われ、契約を結べば生活が安定するというほど単純ではなかった。
日常生活でも同じだった。ピアノ製作者で友人のナネッテ・シュトライヒャーは、1817年ごろ、家事や生活上の手配をたびたび助けている。弟子フェルディナント・リースは、のちにロンドンで出版を仲介した。
ベートーヴェンは自分で作品を売り、条件を交渉した。しかし、その活動は契約を結ぶ相手、作品を運ぶ相手、家のことを助ける相手とのつながりの上にあった。
1812年、名前の残らない相手へ
仕事の周囲に多くの人がいたことと、望んだ親密さが手に入ったことは同じではない。
1812年7月、ベートーヴェンは一人の女性へ激しい恋文を書いた。後世「不滅の恋人」への手紙と呼ばれる文書である。誰に宛てたものだったのかは、現在も確定していない。
手紙には、離れている相手と強く結びつきたいという思いが残っている。ベートーヴェンは生涯結婚しなかった。宛先を推測しなくても、この文書から、彼が親密な関係を強く求めた時期があったことは分かる。
その三年後、彼は恋愛とは別の形で「家族になる」ことへ深く踏み込んでいく。
父親になろうとした叔父
1815年11月、弟カスパールが亡くなった。残された息子カールは9歳で、母ヨハンナがいた。ベートーヴェンは、この甥の後見に強く関わろうとし、ヨハンナとの法的な争いが始まった。
1816年、ベートーヴェンはカールを教育施設へ入れたうえで、ヨハンナが自由に面会できないよう裁判所に求めた。後見をめぐる判断はその後も変わり、ベートーヴェン自身の聴覚障害が後見人としての適格性をめぐる論点にもなった。1820年には、共同後見人とともに再びカールの後見を担っている。
カールへの手紙には、甥の将来を案じる言葉と厳しい要求が並ぶ。ベートーヴェンは自分を父親のような位置に置き、教育や生活へ細かく関与した。
ここでは、「守ること」と「決めること」が近づいている。カールの生活を良くしたいという思いは、母との接触まで制限しようとする法的な介入と同じ関係の中にあった。
声の代わりに、会話帳を使う
カールをめぐる争いが続いていたころ、ベートーヴェンの日常にはもう一つ大きな変化が起きていた。聴覚がさらに衰れ、普通の会話を耳だけで追うことが難しくなっていたのである。
1818年ごろから、訪問者はノートに言葉を書いて伝えるようになった。これが「会話帳」である。相手が書き、ベートーヴェンはそれを読んで、多くの場合は声で答えた。
会話帳には、声だけでは成り立たなくなったやりとりを、別の方法で続ける工夫が残っている。
その生活の中で仕事も続いた。1823年に『ミサ・ソレムニス』を完成し、1824年5月には交響曲第9番が初演された。その後も最後の弦楽四重奏曲群へ取り組んでいる。
耳で受け取れなくなった言葉は、紙に書かれるようになった。友人へ自分から送った手紙とは向きが逆だが、晩年には相手の言葉を受け取るためにも文字が必要になっていた。
1826年、冒頭の紙へ戻る
会話帳が日常に定着した後も、ベートーヴェンはカールの進路や生活に強く関わり続けた。
1826年8月6日、カールは自殺を図り、銃で自分を撃った。命は助かった。ベートーヴェンは医師スメタナへ急いで助けを求めた。
この自殺未遂には、長く続いた家族の争い、進路の問題、カール自身の生活が重なっている。残された資料から、一つの原因だけにまとめることはできない。
それでも、医師を求めた記録と、その前の十年以上にわたる行動は同じ関係の中にある。ベートーヴェンはカールを失いたくなかった。そして、失いたくないという思いのもとで、甥の生活を強く決めようともした。
カールは回復し、その年のうちに軍務へ進んだ。ベートーヴェン自身は年末から健康を大きく崩していく。
第九のあとにも、生活は続いた
交響曲第9番の初演は1824年5月だった。そこからベートーヴェンの死までは、まだ三年近くある。
その間に、最後の弦楽四重奏曲群を書き、カールの危機があり、自身の病気が進んだ。作品の大きな節目が、そのまま人生の終わりの節目だったわけではない。
1827年3月26日、ベートーヴェンはウィーンのシュヴァルツシュパニアハウスで56歳で亡くなった。長く悪化していた聴覚の問題とは別に、最晩年は重い病気に苦しんでいた。
1845年、ボンに像が立つ
死から18年後の1845年、故郷ボンのミュンスター広場にベートーヴェンの記念像が建てられた。その後の19世紀には、彼を神話的で英雄的な人物として造形する記念碑が増えていく。
像は一人の作曲家を大きく立たせる。けれど、ベートーヴェンの生活をたどる資料には、いつも他人が現れる。
友人ヴェーゲラーには、隠していた耳のことを書いた。ウィーンに残るためには三人のパトロンと契約を結んだ。ナネッテ・シュトライヒャーには生活を助けてもらった。名前の確定しない相手には恋文を書いた。甥カールをめぐっては裁判所に働きかけた。そして声を聞き取りにくくなった晩年には、訪問者の文字を会話帳で読んだ。
人との関係を求めることは、彼を支えた。それだけではなく、ときには相手の生活へ深く踏み込む力にもなった。ベートーヴェンの生涯では、その二つをきれいに分けることができない。
1845年の像の台座には、手紙も、年金契約も、後見裁判も、会話帳も刻まれていない。けれど、そうした紙の上にこそ、ベートーヴェンが誰かと生きようとした時間が残っている。彼の音楽は、その人間関係の外ではなく、そのただ中で書かれた。




