一人の人生を読む
約束の絵を受け取りに来た武士
1847年、江戸の浅草田町で、八十代の葛飾北斎を訪ねた武士がいた。松代藩士の宮本慎助である。かつて信州で北斎に掛幅を注文し、出来上がるのを待っていた。居所を変える北斎を探し、ようやく訪問できたものの、約束の絵はまだ完成していなかった。
娘のお栄は、父が描きためていた獅子の絵を代わりに渡すことを提案した。北斎はこれに応じ、二百枚を超える絵に自筆の序文などを添えて宮本に贈った。今に伝わる『日新除魔図』である。宮本の息子が後に記した由来書が、この経緯を伝えている。
それらの獅子は、もともと人から注文されたものではなかった。長寿を願い、災いを除こうと、北斎がほぼ毎朝描いていた絵だった。依頼された掛幅の代わりに、毎朝の厄除けとして描いた紙の束が手渡された。仕事として描く絵と、日々の暮らしの中で描く絵が、そこで交わった。
この出来事の時点で、北斎にはすでに『神奈川沖浪裏』があった。だが本人の生涯をたどると、その有名な大波は長く続いた仕事の一部である。その後も北斎は、仕事を変え、場所を変えながら描き続けていた。
江戸の出版と、最初の修業
北斎は1760年、江戸の本所付近に生まれた。幼名を時太郎、のちに鉄蔵といったと伝わる。父方や養子入りの事情には不明点が残るが、幼い頃から貸本屋や版木を彫る仕事に関わったという伝えは、後の画業を考える手がかりになる。
江戸で絵を仕事にするには、筆で描く技術だけでは足りなかった。本を企画して売る版元がいて、下絵を版木に彫る彫師、紙に刷る摺師がいる。一枚の下絵が何枚もの本や版画になり、買い手の元へ届く。北斎の仕事も、こうした人々と切り離せなかった。
1778年頃、北斎は浮世絵師の勝川春章に入門する。春章は歌舞伎役者を描く絵で知られており、弟子になった北斎は「春朗」の名で役者絵や版本の挿絵を手がけた。劇場で役者を見る人にも、書物を読む人にも、北斎の絵が届くようになった。
三十代半ばに勝川派を離れた北斎は、「宗理」と名乗って狂歌に関わる摺物や絵本を手がけた。1798年頃からは「北斎」の号を使い始める。師のもとで描いた役者絵に加え、さまざまな出版物が仕事の場になっていった。
物語の場面を、読者の目の前に置く
四十代から五十代の北斎は、肉筆の美人画や書物の挿絵などを数多く手がけた。江戸では、絵は書物の一部としても人の目に触れていた。
曲亭馬琴が書いた『椿説弓張月』は、その代表的な仕事の一つだ。1807年から1811年にかけて刊行された読本で、北斎は挿絵を担当した。武将・源為朝を主人公にした長い物語の場面を、読者は文章と絵を行き来しながら読む。北斎は馬琴の物語を絵にし、版元とともに一冊の本をつくる仕事を担った。
やがて手がける富士の錦絵では、物語の筋に沿うのではなく、一枚の紙の中に風景を組み立てていく。絵が人に届く形も変わっていった。
人に教えるための、無数の形
1814年、『北斎漫画』の初編が刊行された。「漫画」という題名でも、現在のように連続した物語をコマで読む本ではない。人物の仕草、動物、植物、風俗、さまざまな形が集められた絵手本である。画を習う人が筆の動かし方や形の取り方を学べるようにした本だった。
『北斎漫画』を刊行してからも、北斎は錦絵や肉筆画を描いた。手本をつくる仕事は、ほかの絵を描く仕事と並行していた。
家庭では二度結婚し、複数の子をもうけた。娘のお栄も、その一人である。お栄はのちに葛飾応為という画号で絵を描くようになり、父の晩年には同じ家で制作をともにした。いつから同居したのか、父の名で残る作品のどこを誰が描いたのかには、不明な点がある。
富士を小さくした大波
北斎が七十代に入り、「為一(いいつ)」と名乗っていた頃、ひときわ広く知られる作品が生まれる。『冨嶽三十六景』である。1831年の正月を迎える頃、版元の永寿堂はこのシリーズを売り出すことを知らせていた。輸入された鮮やかな青の顔料、いわゆるベロ藍が、その魅力の一つだった。
『神奈川沖浪裏』では、巨大な波の内側に小さな富士が見える。波の先端は水しぶきのように枝分かれし、下には船が進む。日本で最も高い富士山も、この絵の中では波の向こうの小さな三角形に見える。『凱風快晴』では逆に、山そのものが大きな画面を占める。同じ富士を描きながら、北斎は見る位置と大きさを大胆に変えていた。
それを何枚も同じように刷るためには、絵師の下絵だけでは完成しない。版木を彫る職人、色を重ねる摺師、材料を用意して売り出す版元が必要だった。北斎が考えた画面は、多くの手を通って町へ出ていった。『冨嶽三十六景』は人気を博し、当初の三十六図から四十六図へと広がった。
「まだ描ける」と書いた七十代
『冨嶽三十六景』ののち、1834年に「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」と名乗った北斎は、『富嶽百景』初編の跋文でそれまでの画業を振り返った。七十代にしてようやくものの形を理解するようになったと記し、八十、九十、百歳へと年を重ね、百十歳になれば点や線まで生きているように描けるだろうと望んだ。
その後の仕事は江戸の外にも広がる。八十代の北斎が向かったのは、信州の小布施だった。
小布施で、もう一度波を描く
1842年、北斎は信州小布施を訪れた。そこには高井鴻山という、絵を学び、北斎を経済的にも支えた豪商がいた。北斎が小布施へ向かった理由については、鴻山の招きや江戸の改革の影響など、いくつかの見方がある。確かなのは、北斎がその後も小布施を訪ね、鴻山の用意した仕事場「碧漪軒」で絵を描いたことだ。
1844年には東町祭屋台の天井に龍と鳳凰を描き、翌年からは上町祭屋台のために『男浪』『女浪』という大きな波の絵を手がけた。町の祭りで用いる屋台の上に描く絵である。『神奈川沖浪裏』の波は、版木と紙の上で人々に売られた。小布施の波は、祭屋台の大きな天井を飾った。これも一人だけの制作ではなく、上町祭屋台の周囲の装飾には鴻山が北斎の下絵をもとに彩色した部分がある。
江戸で職人とともに作っていた版画から、信州で後援者と関わりながら描く大画面へ。版画の大波から十年以上を経て、北斎は別の場所で、異なる大きさの波を描いた。
小布施へ通い始めた頃、江戸では別の日課もあった。天保十三年から十四年、数えで八十三、八十四歳の頃、北斎は厄除けと長寿を願って、ほぼ毎朝、獅子や獅子舞に関係する人々を描いた。その二百十九枚がまとまって残る『日新除魔図』である。大作の注文でも教本でもない、小さな紙に繰り返した私的な行いだった。
娘が差し出した獅子の絵
あの1847年の訪問で、絵を待っていた宮本慎助に渡されたのが、この獅子の絵だった。娘のお栄が保管していた紙の束を、注文の掛幅に代えることを提案したのである。北斎はそこへ序文などを加えた。作品が現在まで伝わったことには、北斎自身だけでなく、お栄の判断と依頼主の側に残された由来書が関わっている。
その提案をしたお栄自身も絵師だった。北斎と暮らし、制作をともにしながら、毎朝の獅子の絵を保管していた。父の絵を依頼主に渡す場面でも、お栄の役割があった。
宮本に渡った獅子の絵は、結果として約束の掛幅の代わりになった。北斎の晩年には、描き続ける日課と、仕上げられずに残った依頼が並んでいた。
最後まで、完成しない画業
1849年、北斎は江戸で亡くなった。数え九十歳。その後、版画や画帳は海外でもさらに知られるようになり、とくに十九世紀後半にはヨーロッパの美術界から高く評価された。『神奈川沖浪裏』は、北斎を代表する図像の一つになった。
だが、その一枚の後ろには、本を読む人へ渡した挿絵、絵を学ぶ人に向けた手本、版元と職人が仕上げた富士、小布施の祭屋台、娘とともに過ごした晩年、長寿を願って描いた小さな獅子がある。絵の用途が違えば、一緒に働く人も違った。
『富嶽百景』の跋文で思い描いた百歳、百十歳の自分には届かなかった。それでも八十代の北斎は、毎朝の小さな獅子を描き、信州では祭屋台に大きな波を描いた。名画として残った一枚の向こう側には、次の一枚を描こうとした日々がある。




