一人の人生を読む
金細工と印刷の町で育つ
1471年、アルブレヒト・デューラーはニュルンベルクに生まれた。父はハンガリーから移住した金細工師で、息子にもその技術を教えた。金属の表面へ細い線を刻む仕事は、後にデューラーが銅版画で見せる線の精度と無関係ではなかっただろう。ただし、金細工師の息子だから版画家になった、と一直線に説明することはできない。
彼の周囲にはもう一つ、後の仕事と強く結びつく産業があった。ニュルンベルクは印刷と出版の盛んな都市で、デューラーの代父アントン・コーベルガーは有力な出版業者だった。絵を一枚だけのものとして売る世界と、同じ図像を何枚も刷って遠くへ流通させる世界が、同じ町の中に存在していた。
15歳になると、デューラーは画家ミヒャエル・ヴォルゲムートの工房へ入る。ヴォルゲムートの工房は祭壇画だけでなく、本の挿絵になる木版画にも関わっていた。ここでも「画家」と「印刷物をつくる人」はきれいに分かれていない。
19歳、町を出る
1490年、デューラーは職人修業の旅へ出た。若い職人が各地を巡る習慣の中で、約4年にわたりドイツ語圏を移動した。1492年には、当時もっとも優れた銅版画家の一人だったマルティン・ショーンガウアーを訪ねてコルマールへ着く。しかし、ショーンガウアーはすでに亡くなっていた。
会いたかった人物には会えなかった。それでも旅は続き、その家族や作品との接触を経て、1494年にニュルンベルクへ戻る。同年、アグネス・フライと結婚し、ほどなく北イタリアへ向かった。後のデューラーは、北方の細密な描写とイタリアで強まった比例・遠近法への関心を同じ仕事の中へ持ち込んでいく。
旅から帰った20代半ばの彼がニュルンベルクに工房を開く頃、重要だったのは、大きな教会や宮廷の注文だけではなかった。木版画や銅版画なら、作品を持ち運べる。画家本人がその町へ行かなくても、紙が行く。
1498年、作品が本人より遠くへ行く
27歳のデューラーが刊行した木版画連作『黙示録』は、その方法を象徴する仕事になった。ヨハネ黙示録の場面を大判の木版画で描き、ドイツ語版とラテン語版を出版する。なかでも「黙示録の四騎士」は、馬と人物が画面を押し破るように進む強い図像として知られる。
版画は絵画の安価な代用品ではなかった。デューラー自身が構図を考え、版木を彫る職人や印刷・販売の仕組みと組みながら、一つの作品として市場へ送り出した。ナショナル・ギャラリーが指摘するように、彼の版画はイタリアの芸術家にも影響を与えた。ニュルンベルクにいる画家の線が、本人の移動を超えて伝わっていったのである。
この頃からデューラーは「AD」を組み合わせたモノグラムを作品へ繰り返し入れる。複製されるからこそ、誰の作品なのかを示す印も重要になる。
1500年、自分の顔を正面から描く
28歳の自画像で、デューラーは自分を真正面から描いた。暗い背景、正面を向いた顔、胸元に置かれた手。現在ではルネサンスの芸術家が自分を強く意識した例として頻繁に取り上げられる。
しかし、この自画像だけを見て「近代的自我が誕生した」と結論づけると、職業人としてのデューラーが消える。彼は自分の顔だけでなく、自分の名前、作品、版画の品質、販売先にも注意を払った。作者としての自己意識は、宗教的・人文主義的な意味と同時に、作品が複製され売買される市場の中でも形成されていた。
1504年の銅版画『アダムとイヴ』では、人体を理想的な比例へ近づけようとする研究が、極めて細密な彫版技術と重なる。
技術を覚えるために、もう一度イタリアへ行く
1505年、デューラーは再びイタリアへ向かった。ヴェネツィアでは絵画の注文を受け、ジョヴァンニ・ベッリーニら現地の画家との交流も経験した。北方の画家が一方的にイタリアから学んだ、というだけではない。すでにデューラーの版画はイタリアでも知られ、彼自身も自分の作品が模倣される状況に直面していた。
1507年にニュルンベルクへ戻ると、絵画と版画の双方を続ける。1511年には複数の木版画連作をまとめて刊行し、出版という仕事をさらに体系化した。
宮廷画家として一人のパトロンに抱えられる道もあったが、デューラーの仕事はそれだけに依存しなかった。注文絵画、版画販売、皇帝の仕事、肖像、理論書。収入と活動の経路が複数あったことが、移動と制作の幅を広げた。
『メランコリアI』には、道具が散らばっている
1513年から1514年、デューラーは『騎士と死と悪魔』『書斎の聖ヒエロニムス』『メランコリアI』など、後に「三大銅版画」と呼ばれる作品を制作した。
『メランコリアI』には、コンパス、多面体、球、梯子、秤、砂時計、数表などが置かれている。翼を持つ人物は道具に囲まれているのに、手を止めて座っている。意味は一つに確定しておらず、学問、創造、幾何学、憂鬱などをめぐって長く解釈されてきた。
ここで見えるのは、絵を描くことと測ることが離れていなかった時代の仕事である。デューラー自身も晩年になるほど比例、幾何学、遠近法を文章と図で整理し、他者が学べる形へ変えていった。
1520年冬、「鯨を見たい」と海へ向かう
1520年から翌年にかけてのネーデルラント旅行では、デューラー自身の日記が残っている。旅の目的には、皇帝マクシミリアン1世の死後も年金を受け取れるよう、新皇帝カール5世に確認を得るという現実的な用件があった。だが日記には、政治的な用事だけでなく、食事、贈り物、売買、見物まで細かく記録されている。
その冬、ゼーラントの海岸に大きな鯨が打ち上げられたという知らせを聞くと、デューラーはわざわざ見に出かけた。ところが到着したときには、鯨は潮にさらわれて姿を消していた。空振りに終わった旅の後、彼は発熱と悪寒に苦しみ、日記には病気の経過まで書き残している。
「北方ルネサンスの巨匠」という肩書からは見えにくいが、この旅の日記にいるのは、珍しいものを聞けば見に行き、作品を売り、贈り物の値段を記し、病気になればその症状を書く50歳前後の職業人である。大きな理論や代表作の間に、こうした一日の好奇心と失敗が挟まっている。
作品と自分を売りながら旅をする
ネーデルラントでは、デューラーは芸術家や知識人に会い、作品を売り、贈り、交換した。その記録が日記に残る。何枚売ったか、何を贈ったか、どれだけ支払ったか。後世の「天才画家」という呼び名とは違って、そこにはかなり具体的な営業と生活の記録がある。
作品をつくれば自動的に歴史へ残るわけではない。刷る、署名する、持ち運ぶ、売る、贈る、人に見せる。デューラーは制作と流通を一続きの仕事としていた。
最後は、技術を本へ移す
晩年、デューラーは測定法や人体比例についての理論書をまとめた。自分の手に蓄積された方法を、作品だけではなく文字と図版へ移す仕事である。1528年刊の『人体均衡論四書』は、彼の死と同じ年に世に出た。
1528年4月6日、デューラーはニュルンベルクで56歳で亡くなった。
彼の人生を自画像だけで見ると、強い個性を持つ一人の「芸術家」が現れる。だが版画を並べると、別の姿が見える。工房で覚えた技術を複製可能な紙へ変え、作品に印を付け、市場へ流し、旅先で売買し、最後には方法を本にする人である。
デューラーの名声が国境を越えた理由は、作品が優れていたからだけではない。その優れた作品を、本人がいない場所まで運ぶ仕組みを持っていたからでもあった。




