一人の人生を読む
学び続けても、道が定まらなかった
法然は1133年、美作国久米南条稲岡庄、現在の岡山県久米郡久米南町に生まれた。幼名は勢至丸という。父は地域の治安や荘園管理に関わる武士層の人物だったと伝えられる。
9歳ごろ、父が夜討ちを受ける事件が起きた。浄土宗や知恩院に伝わる話では、父・漆間時国は死を前に、仇討ちをすれば恨みが世代を越えて続いてしまう、敵を恨まず出家して父の菩提を弔い、自らの解脱を求めよ、と勢至丸に言い残したという。こうした父の遺言が、のちに仏門へ進む少年法然の出発点として後世に伝わっている。法然は少年期に家を離れ、やがて比叡山で長い学問と修行の時間を過ごした。
当時の比叡山には、経典、儀礼、戒律、観想、念仏など、仏道を歩むための巨大な知識と実践の体系が蓄積されていた。法然はそれを十分に学んだ側の人間だった。だからこそ、彼の転換は「難しい仏教を知らなかった人が簡単な方法を選んだ」という話ではない。
長く学んだ末に、法然が問題にしたのは、これだけ多くの修行を普通の人間が本当にやり遂げられるのか、ということだった。
たくさんある修行から、一つを選ぶ
法然の名と結びつく言葉が「専修念仏」である。阿弥陀仏の名を「南無阿弥陀仏」と称える念仏を、往生のための中心的な行として選ぶ。
ここで重要なのは、法然が単に「念仏もよい」と選択肢を一つ増やしたわけではないことである。高度な観想や学問、厳しい修行を自分の力で完成させることを救いの条件にしてしまえば、その条件を満たせる人は限られる。法然は善導などの浄土教の伝統を読み直し、阿弥陀仏の本願に基づく称名念仏を選び取った。
浄土宗では1175年を開宗の年と位置づける。法然は京都・東山の吉水を拠点に教えを説き、貴族、武士、僧侶だけでなく、さまざまな立場の人びとがその周囲に集まった。
「易しい教え」は、単純な教えではない
念仏を称えるだけ、と聞けば簡単に見える。しかし法然の思想は、何もしなくてもよいという意味ではない。
問題は、救いを人間側の能力や功績の量で測るのか、それとも阿弥陀仏の本願をよりどころにするのか、という位置の違いにある。法然は、人間が自分の修行の完成度を根拠にして往生を確保するという発想から離れようとした。
1198年ごろ、九条兼実の求めに応じてまとめたとされる『選択本願念仏集』では、経典や祖師の文章を引用しながら、なぜ多くの実践のなかから念仏を選ぶのかを論じた。題名にある「選択」は、法然の思想をよく表している。すべてを抱え込むのではなく、一つを選び、その選択の根拠を徹底して考えるのである。
人が増えると、教えも自分の手を離れていく
教えが広がることは、単純な成功ではなかった。法然の周囲には多くの門弟が集まり、念仏の理解も行動も一様ではなくなった。他宗を非難したり、念仏さえ称えれば行動は何でも許されると受け取られたりする危険も生じた。
1204年、比叡山側から専修念仏への批判が強まると、法然は門弟に七箇条制誡への署名を求めた。自分の名のもとで広がった運動を、本人がすべて直接管理できるわけではない。それでも、教えの広がりが生む問題から離れることはできなかった。
この点で法然は、思想を考える人であると同時に、思想が社会に出た後の責任を引き受ける立場にもなっていった。
1207年、京都から追われる
対立は収まらなかった。1207年、後鳥羽上皇の周辺で起きた事件を契機に念仏者への弾圧が行われ、法然の門弟の一部は死罪となった。法然自身も流罪を命じられた。
流罪によって、長く活動してきた京都から切り離された。のちに赦免されるが、すぐに京都へ戻れたわけではない。晩年の法然にとって、教えが広がった結果として国家権力から処罰される経験は小さな出来事ではなかった。
一方で、この移動は念仏の教えが京都の宗教制度の内部だけにとどまらず、地方へ広がる契機にもなった。弾圧は教えを消すことにはならなかった。
1212年1月11日、一枚に書き残す
1211年、法然は京都へ戻った。翌1212年1月、死はすぐ近くまで来ていた。
浄土宗の伝承では、1月11日、長く法然の身近に仕えた弟子・源智が、教えの要点を書き残してほしいと願ったとされる。法然はその求めに応じ、一枚の文書を記した。後に『一枚起請文』と呼ばれる文章である。
そこに書かれたのは、学問を誇るための最終講義ではなかった。念仏を称える者は、自分を賢い者として飾らず、ただ念仏する人として生きる。その方向を一枚に絞って残したと伝えられる。
法然はその14日後、1月25日に死去した。
法然のあとに、違う道がいくつも生まれた
法然の死後、門弟たちは同じ一つの宗派として完全にまとまり続けたわけではない。念仏をどう理解するかをめぐって複数の流れが生まれ、その一人である親鸞も、師の教えを受け継ぎながら独自の思想を深めていった。
これは法然の思想が不完全だったということではない。むしろ、一つの考えが本当に社会へ出ていけば、それは作者の手を離れ、異なる人の人生の中で読み直される。
法然が残したのは、答えの数を増やす方法ではなかった。多くの可能性を知ったうえで、それでも何をよりどころにするのかを選ぶ態度だった。その選択が、後の日本仏教の大きな流れをつくることになる。




