一人の人生を読む
静まり返った革命の日
1848年2月24日の朝、パリでは王政が崩れかけていた。アレクシ・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)は、その日の街について、のちに『回想録』で詳しく書いている。料理人から外の騒ぎを聞き、家を出た。商店は閉まり、人影はまばらで、通りにいる人は小声で話していた。銃を持った国民衛兵の姿もあったという。
わずか一か月前の1月27日、トクヴィルは議会で政治の危機を警告していた。社会は火山の上で眠っているようなものだ、と。彼が議場で訴えたのは、労働者の不満が政治の足元にたまっているという危機感だった。
そして実際に危機が来ると、街は彼の思いどおりに動かなかった。人びとがどう行動するか、政治制度がなぜ変わるか。それを観察し、言葉にすることでは名を知られた人が、今度はその変化に巻き込まれていたのである。
監獄を見に行った青年
トクヴィルは1805年7月29日、フランスの貴族の家に生まれた。家族には、フランス革命によって古い身分秩序が揺らいだ記憶が残っていた。幼少期から民主主義を支持するために育てられたわけではない。彼が大人になるころのフランスは、王政が戻ったあとも、以前とまったく同じ社会には戻れない国だった。
法律を学び、1827年にヴェルサイユの司法官となる。この職場で知り合ったのが、ギュスターヴ・ド・ボーモン(Gustave de Beaumont)である。二人はその後、仕事だけでなく友人としても長く結びつく。トクヴィルの最も有名な旅は、この二人で始めた共同調査だった。
1830年、フランスではまた革命が起き、王が代わった。貴族の家に属する青年にとって、新政権との距離をどう取るかは身近な問題だった。翌1831年、二人は監獄制度を調査する任務でアメリカ合衆国へ向かう。刑務所の仕組みを調べる正式な仕事であり、民主主義の本を書くために国を飛び出したわけではない。
アメリカで見たのは、監獄だけではなかった。町の自治、住民が集まってつくる団体、新聞、宗教、人と人の身分の差。フランスでは貴族の家に生まれたことが人生を大きく左右した。その彼の目には、同じような社会的地位を与えられた人々が、公の仕事に参加している様子が強く映った。
二人は約九か月の旅行を終えて帰国し、共同で監獄制度についての報告をまとめた。けれど、その旅からトクヴィルが持ち帰った問いは、刑務所よりはるかに広いものになっていた。
アメリカで見た自治と追放
1835年、『アメリカのデモクラシー』(De la démocratie en Amérique)の前半が刊行される。続きは1840年に出た。ここでトクヴィルが考えたのは、選挙制度の長所や短所だけではない。人々の身分が近づいていく社会では、どんな習慣が生まれ、何によって自由が守られ、逆に何によって圧迫されるのか、ということだった。
彼は、人々が自発的に団体をつくり、地域の問題に関わる習慣に注目した。国家がすべてを決めるのでも、孤立した個人が一人で生きるのでもない。誰かと協力して小さなことを決める経験が、自由を支えると見たのである。
同時に、同じ考えを持つ多数の人が、異なる意見の人を押しつぶす危険にも目を向けた。多数決で選ばれた権力であっても、少数者には重荷になることがある。トクヴィルが警戒したのは、平等が広がること自体よりも、人々がそれに安心して、ものを考える力や他者と組む力を手放すことだった。
ただ、アメリカの「平等」を語るとき、そこに数えられない人がいた。1831年末、トクヴィルはメンフィス付近で、故郷を追われたチョクトーの人々がミシシッピ川を渡る様子を見たと『アメリカのデモクラシー』に記した。一行には家族連れも病人もいた。自治や結社の活発さを観察した同じ旅の途中に、この光景があった。
白人のあいだで身分の差が小さくなる社会は、先住民の土地を奪い、黒人を奴隷として扱う社会でもあった。トクヴィルはこうした現実にも著書のなかで紙幅を割いた。平等が広がる範囲と、そこから排除される人々。その両方をアメリカで見ていた。
書く人から、決める人へ
著作の成功によって名は知られるようになったが、彼の生活が本だけで閉じたわけではなかった。英国出身のメアリ・モットリー(Mary Mottley)と結婚し、貴族家の期待と自分の結婚生活が必ずしも一致しないなかで暮らした。夫妻には子どもがいなかった。のちにメアリが彼の遺稿を受け継ぐことになるが、それはまだ先のことである。
政治にも自分の場所を求めた。1837年の選挙では敗れ、1839年に議席を得る。観察し、分析し、出版する仕事と、現実の政治で賛否を決める仕事は違う。議場では、答えを先送りにできない問題が次々に起こる。
その一つが、フランスが征服を進めていたアルジェリアだった。トクヴィルは現地を訪ね、1830年代から1840年代にかけて植民地政策を論じ、議会の報告にも関わった。彼はフランスによる征服と植民地化を支持した。
1841年の論考では、住民を無差別に殺す戦い方を退けながらも、敵対する部族を屈服させるために収穫物を焼き、食料を奪い、武器を持たない人々を捕える措置を、戦争に伴う避けがたい手段として認めた。軍の暴力を批判する言葉も持ちながら、別の暴力を政策の手段として認めていたのである。
メンフィスでチョクトーの人々の強制移住を見た旅行者は、アルジェリアでは征服を続ける側の議員になっていた。二つの土地で何を見たかだけでなく、どの立場で、何を選んだかが違っていた。
警告した革命の内側で
1848年1月、トクヴィルが「火山」にたとえたのは、議会での政権批判だった。翌月、二月革命によって七月王政は崩れる。街が静まり返っていたという冒頭の光景は、後年の『回想録』に収められたものだ。議員として感じた危険を、自分も逃れられない出来事として記憶していた。
革命で共和国が成立すると、トクヴィルは4月の選挙で制憲議会に選ばれ、憲法委員会にも加わった。民主主義を論じた著述家が、新しい共和国の制度を決める仕事に携わることになった。
議会では、仕事と生活の保障を求める声にどう応えるかが争点になった。トクヴィルは「働く権利」をめぐる採決で反対に回り、秩序を重んじる議員たちと行動を共にした。人々が政治に参加する権利を論じることと、革命のなかで出された要求を受け入れることは、彼にとって同じではなかった。
1849年、トクヴィルは外務大臣に就任する。すでに大きな本を書いた著者が、ようやく国家の方針に手をかける位置まで来た。しかし、在任はその年のうちに終わった。革命前に政府の弱さを見抜いていたとしても、新しい政府の中で安定した地位を築くことはできなかった。
さらに1851年、ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Louis-Napoléon Bonaparte)がクーデターを起こす。トクヴィルはこれに反対して拘束された。自身も関わった共和国の仕組みが、権力を握る人物によって壊されるのを見た。こうして彼の議会人としての時間は終わる。
議席を失って、革命を調べる
政治の第一線から退いたトクヴィルが向かった先は、過去の記録だった。フランス革命はなぜ起きたのか。王が倒れれば古い仕組みもすべて消えるのか。革命で何かが突然生まれたように見えても、その準備はもっと以前から進んでいたのではないか。彼は古い行政記録や歴史資料を読み、国家の権力が革命の前後でどう受け継がれたかを調べていく。
1856年、『旧体制と大革命』(L’Ancien Régime et la Révolution)を刊行した。アメリカを訪ねた若いころには、海の向こうにある現在の社会を観察した。議席を失ったあとは、自分の国の過去へ深く潜り込んだ。見ている時代は逆向きでも、政治を制度と人びとの生活の両方から考えようとする仕事は続いていた。
けれども、身体はその仕事を続ける時間を十分に与えなかった。晩年は病を抱え、南仏カンヌで療養した。1859年2月28日、友人のアルテュール・ド・ゴビノー(Arthur de Gobineau)に宛てた手紙には、年明けに病状が悪化したこと、2月には力が戻り、気管支の病も快方へ向かっているように思えることが書かれている。友人からしばらく便りがなかったことにも不満を漏らした。病気を抱えながら、返事の遅い友を気にする人の手紙だった。
同年4月16日、トクヴィルはカンヌで亡くなった。53歳だった。
遺稿を受け継いだのは妻メアリだった。メアリは長年の友人ボーモンに編集を託し、没後の刊行が進められた。原稿はその後も家族の手を移り、研究者たちによって読み直されていく。
ボーモンは、まだ司法官だったトクヴィルとともに1831年、監獄を調べるためアメリカへ渡った人物である。二人で始めた旅から生まれた著作は、トクヴィルが亡くなったあと、同じ友人の手を経て読者に渡った。




