東京大学の安田講堂、渋谷の松濤美術館、広島平和記念公園。同じ「日本の近代建築」として並べられることはあっても、つくられた時代も、建物に求められた仕事も違う。
建築史を学ぶとき、作品の写真を見比べて形の違いを覚えることはできる。けれど、その建物をつくることで、建築家は何をしようとしていたのかまでは、写真だけでは分からない。
岸田日出刀、白井晟一、丹下健三の3人は、建築の設計に加えて教育、著述、都市の構想にも関わった。その活動をたどると、建物を完成させる以外にも、建築家が社会と関わる方法があったことが分かる。
まず3人の仕事の違いをつかむ
- 岸田日出刀(1899–1966):設計のほか、写真や著述、大学での教育を通じて、人々が建築をどう見るかに関わった。
- 白井晟一(1905–1983):図案と哲学を学んでから建築へ進み、材料や空間の経験を通して、日本の伝統を考え直した。
- 丹下健三(1913–2005):戦後の公共建築から都市計画まで、大きな社会的な課題を建築と都市の形として構想した。
もちろん岸田も建築を設計し、白井も公共建築をつくり、丹下も学生を教えた。違いは職業の種類ではなく、どこに仕事の重心を置いて読むと、その人の姿が見えやすいかにある。
岸田日出刀――建物をつくり、建物の見方を伝えた
1925年、安田講堂が完成する
岸田日出刀は1899年に福岡で生まれ、東京帝国大学で建築を学び、そのまま大学で仕事を始めた。1923年の関東大震災によって東京帝国大学の建物も大きな被害を受け、キャンパスの再建が進む。再建を主導したのは内田祥三であり、若い岸田もその下で実務に関わった。
1925年に完成した安田講堂は、内田祥三と岸田日出刀の設計として知られる。中央に塔があり、大学の正面を強く印象づける建物だ。内田が再建計画を率い、若い岸田が設計実務に関わった。大学の象徴となる建物は、そうした協働の中で生まれた。
ここで一つ見ておきたいのは、岸田の仕事が講堂の完成で終わらなかったことだ。彼は長く大学で教え、研究と著述を続けていく。
写真を撮り、建築の見方をつくる
岸田は建物を設計するだけでなく、古い建築を撮影し、写真と文章で紹介した。『過去の構成』や『甍』などの仕事では、建物の一部をどう切り取り、何に注目するかという問題が現れる。
写真は、建物そのものではない。立つ場所や構図が変われば、同じ建物でも違って見える。岸田が写真や著述に取り組んだことは、建築を「つくるもの」としてだけでなく、「見るもの」「学ぶもの」として広げる仕事だった。
大学教育を通じて建築家たちが育つ環境にも関わった。岸田の影響を、彼自身の設計した建物の数だけで評価することは難しい。
白井晟一――伝統を、昔の形の模倣にしなかった
建築家になる前に、図案と哲学を学んだ
白井晟一は1905年、京都に生まれた。京都高等工芸学校で図案を学び、ドイツでは哲学に触れた。1933年に帰国すると、身近な人の住宅設計などを通じて建築の実務へ進んだ。
建築家の教育を専門的に受けてきた岸田とは、出発点から違う。白井は、建物をつくり始めた時点で完成した独自の様式を持っていたわけではない。木造の住宅や小さな公共建築から経験を重ね、その後、銀行や美術館などへ仕事を広げた。
日本らしさは、屋根の形だけで決まるのか
戦後の日本では、近代建築の技術を用いながら、日本建築の伝統をどう扱うかが議論された。昔の屋根や柱の形を取り入れれば「日本的」になるのか。それとも、空間のつくられ方や材料の使い方に学ぶべきものがあるのか。
白井は1950年代の伝統論争にも参加し、過去の様式をそのまま写すこととは違う建築を考えた。親和銀行本店などに見られる量感のある壁、素材の扱い、光と影。後年の渋谷区立松濤美術館では、限られた都市の敷地のなかに独特の静けさを持つ空間をつくった。
白井の建築を、日本風か西洋風かという二つだけで分けると見落とすものがある。何に似ているかより、そこで人がどんな空間を経験するのかを考える入口になる。
建てられなかった計画も、仕事の一部だった
1955年、白井は「原爆堂」という計画を発表した。建設には至らなかったが、建築の計画を通じて戦後社会へ問いを投げかけた例である。建築家の仕事には、実際に建った建物だけでなく、図面や文章として社会へ示されるものもある。
丹下健三――建物から、都市全体の構想へ
広島の焼け跡に、公共空間をつくる
丹下健三は1913年に生まれ、東京帝国大学で建築を学んだ。戦前に前川國男の事務所で働き、戦後は大学で教えながら公共建築や都市計画に取り組む。
1949年、広島平和記念公園と記念館の設計競技で丹下のグループの案が選ばれた。この計画は、記念館を一棟つくるだけのものではなかった。公園の中で視線が通る軸を設け、慰霊施設と原爆ドームを都市の空間として結びつけようとした。
岸田の安田講堂が大学の中心となる建物だったのに対し、ここでは都市の中に何を記憶する場所として残すのかが問われていた。
公共建築が都市の風景になる
丹下は1960年に東京の将来像を描いた「東京計画1960」を発表した。都心から東京湾へ都市を伸ばすような構想で、実現した建物の案内図ではなく、都市の仕組みそのものを考える提案だった。
1964年の国立代々木競技場では、大きな屋根の形と内部の空間が一体になっている。競技を行う施設であると同時に、東京の街に新しい風景をつくる建築でもあった。
広島平和記念公園や国立代々木競技場の実現には、行政、構造設計者、施工者など多くの人が関わった。丹下の構想は、そうした協働を通じて実際の公共空間になっていった。
3人を比較すると見えてくること
① 「建築を社会へ届ける方法」が違う
岸田は大学で教え、写真や文章でも建築の見方を広めた。白井は、実作と同時に論考や未実現の計画を通して建築への考えを示した。丹下は公共建築と都市計画によって、大きな規模の空間を構想した。
設計図を描いて建物を完成させることだけが、建築家の活動ではない。3人は、その違いを分かりやすく見せてくれる。
② 「伝統」と「近代」は単純な対立ではない
近代建築と聞くと、コンクリートや鉄、ガラスで古い日本建築を置き換えることを想像するかもしれない。しかし白井は素材と空間から過去の建築を考え、丹下も近代的な構造や公共性と日本の建築表現をどう結びつけるかを試みた。
岸田が古建築を写真や著述の対象として捉えたことも、過去の建築をただ保存するか否かという二択には収まらない。
③ 完成写真だけでは、建築の仕事は見えない
安田講堂の写真だけでは大学教育が見えない。松濤美術館の写真だけでは白井の思想や「原爆堂」の計画が見えない。広島平和記念公園の写真だけでは、戦後都市の計画をめぐる議論が見えない。
建築家の人生を読む意味は、完成した形が生まれた過程と、その形を超えて続いた仕事を知れることにある。
どこから読めばよいか
大学と建築教育に関心があれば岸田日出刀。日本の伝統と現代建築の関係を考えたいなら白井晟一。都市と大規模な公共建築を知りたいなら丹下健三から始めるとよい。
3人を続けて読むなら、岸田→白井→丹下の順が分かりやすい。建築をどう見るか、どのような空間をつくるか、建築で都市に何を示すかへ、関心の範囲を広げられる。
海外の建築家も含めて作品から探したい人には、別の入口として近代建築を代表する建築家9人がある。


