一人の人生を読む
安田講堂だけでは、岸田日出刀は見えにくい
東京大学の安田講堂を正面から見ると、中央の塔が強く目に入る。大学を象徴する建物として知られ、設計者には内田祥三と岸田日出刀の名が並ぶ。岸田を知る入口としては分かりやすい。しかし、安田講堂だけを見ていると、この建築家が何を仕事にしていたのかは半分ほどしか見えてこない。
岸田日出刀は1899年、福岡市に生まれた。父は裁判所書記の岸田稔。東京府立中、第一高等学校を経て東京帝国大学工学部建築学科で学び、そのまま大学に残った。1922年に講師、1925年に助教授、1929年には教授となる。1959年まで、約36年にわたって東京帝国大学・東京大学で教え続けた。
建築を設計する。学生を教える。写真を撮る。文章を書く。委員として公共建築に関わる。岸田の仕事は、この複数の役割の間を行き来していた。
20代、震災後の大学をつくる
岸田が大学で仕事を始めた1920年代、東京の建築環境は大きく揺れていた。1923年の関東大震災は東京帝国大学にも被害を与え、その後の本郷キャンパス再建を主導したのが内田祥三だった。若い岸田は、その下で設計実務へ深く関わっていく。
安田講堂は1925年7月に竣工した。東京大学は現在も、内田祥三と岸田日出刀の設計によるものと説明している。基本計画を主導した内田と、若い岸田の関係を無視して「岸田の作品」とだけ呼ぶのは正確ではない。一方、細部や内部空間には、岸田の造形志向を見る研究もある。
26歳の岸田にとって、大学は研究対象であると同時に実際の建築現場だった。教員になってから理論を考え、その後に作品をつくったのではない。設計と教育が最初から同じ場所で進んでいた。
1925年、ヨーロッパを見る
安田講堂が完成した1925年、岸田は約1年間ヨーロッパへ渡った。国立近現代建築資料館には、この時期を含む海外調査の日記や写真が残されている。東京大学の駒場リサーチキャンパスの解説は、岸田が当時のヨーロッパの新しい建築に強く関心を持ち、航空研究所の建物にはドイツ表現派の影響が安田講堂以上に濃く現れていると説明する。
これは単に「西洋へ行ってモダニズムを学んだ」という話ではない。帰国後の岸田は、古いものを捨てて新しい様式だけを追ったわけでもなかった。むしろ新しい建築を見る目で、古い日本建築をもう一度見直していく。
駒場の航空研究所キャンパスでは、左右対称から外れた塔や大きなガラス面など、当時の本郷キャンパスとは異なる表現が試された。大学という一つの制度の中でも、建築の答えは一つではなかった。
カメラで、建築の一部を切り取る
岸田の仕事で面白いのは、建築写真が単なる作品記録ではないことである。屋根、壁、窓、縁、装飾。建物全体を正面から説明するのではなく、一部分を切り取ることで、形の関係を見せる。
『過去の構成』には、古い日本建築や工芸を写した図版が並ぶ。寺社を歴史様式として分類する本とは少し違う。写真のフレームの中で、線、面、反復、陰影が「構成」として見えてくる。古いものを保存すべき文化財として見るだけではなく、現代の設計者が読み直せる造形として見る態度がある。
ここには渡欧後の岸田の視線が重なっている。新しいヨーロッパ建築に触れたから、日本の過去を否定したのではない。新しい造形の語彙を手に入れたことで、昔の屋根や格子の中にも別の秩序を見つけた。
1936年3月、建築が「オリンピック」に送られる
1936年3月16日、ベルリン・オリンピックの芸術競技へ送る日本作品の審査が東京科学博物館で行われた。当時のオリンピックには絵画や彫刻だけでなく建築部門もあり、最終的に日本から建築作品五点が出品される。その一覧の中に、岸田日出刀の「日本のゴルフ」があった。
選ばれた作品群は3月29日から4月3日まで東京府美術館で国内展示され、4月12日、横浜から照国丸でベルリンへ送られた。建築はその場に建てて見せることができない。図面や写真などへ変換し、船に載せ、遠い会場で見てもらう必要がある。岸田が写真と出版に力を入れた時代には、建築そのものと同じくらい「どう切り取り、どう運び、どう見せるか」が建築家の仕事になりつつあった。
国立近現代建築資料館には、岸田が1936年のベルリン・オリンピック調査時に残したフィルムと写真集も保存されている。1925年の欧州調査に続き、彼は海外の建築を現地で撮影し、その像を日本へ持ち帰った。建築を見ることと、建築を見せることが、ここでもつながっている。
「設計者」から「見る人」へ仕事を広げる
岸田は『甍』『窓』『扉』『縁』など、建築の部分を題名にした文章も数多く残した。専門家向けの設計論だけでなく、一般の読者が建築を見る入口をつくっていたことが分かる。
建築家の仕事を、建てた建物の数だけで測ることはできる。しかし岸田の場合、それだけでは小さく見積もりすぎる。写真を通じて見せ方をつくり、文章によって言葉を与え、授業で次の世代へ渡した。
教室から、次の建築家が出ていく
岸田のもとでは、前川國男、谷口吉郎、丹下健三ら、後に日本建築の中心人物となる建築家が学んだ。もちろん、その後の仕事を岸田一人の「育成成果」として説明することはできない。それぞれに別の師、事務所、時代、海外経験がある。
それでも、長期にわたって大学に居続けたことには意味がある。岸田自身の設計方法だけをコピーさせるのではなく、新しい建築、古い日本建築、写真、都市、造形を同じ教育環境へ持ち込んだ。教員の作品は建物だけでなく、学生が何を見るようになるかにも残る。
戦後、岸田は日本建築学会会長や文化財関係の委員を務め、東京オリンピックの施設特別委員長など公共的な役割も担った。20代で大学のキャンパスをつくっていた人が、60代には国家的規模の施設計画に関わっていたことになる。
1966年、山中湖畔で終わる
1966年5月3日、岸田は山中湖畔の別荘で心筋梗塞のため亡くなった。67歳だった。東京文化財研究所の記録には、午後3時30分という時刻まで残っている。
その死から半世紀以上が過ぎても、安田講堂は東京大学の中心に立っている。一方、『過去の構成』の写真を開くと、岸田が見ていたものはもっと小さい。屋根の重なり、柱と壁の間、光が落ちる面。大きな記念建築と、小さな構成への視線。その両方を同じ人が扱っていた。
岸田日出刀の仕事を考えると、建築家は「何を建てたか」だけでなく、「何が建築として見えるようになったか」にも関与することが分かる。建物を設計し、写真のフレームを選び、文章を書き、学生に見せる。彼が長く設計したのは、建築物そのものと同時に、建築を見るための視線だった。




