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都市計画 / 理想都市 / 人の暮らし

理想の街は、本当につくれるのか?田園都市・高速道路・歩く街・ディズニー

ハワードの田園都市は建設され、ディズニーの未来都市は別の形で残った。モーゼスの道路計画、ジェイコブズの住民運動、ゲールの街路調査を通じて、街の理想が実現するとき何が起こるかを比べる。

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遊園地を歩いていると、どこへ行けばよいか迷わず、人の流れも自然に続いているように感じる。店は見つけやすく、広場には休む場所がある。こんな街で毎日暮らせたら、と考えたことがある人もいるだろう。

ウォルト・ディズニーは、実際に人が住む未来の都市を考えた。1966年に示した構想の名前は「エプコット」。実験的な未来都市をつくり、そこで新しい交通や生活の仕組みを試そうとするものだった。

しかし、ディズニーが構想した住宅を持つ未来都市は、そのままの形では建設されなかった。一方、イギリスには、19世紀末に考えられた「田園都市」が、今も人の暮らす街として残っている。

理想の街は、紙の上で描いたとおりにつくれるのだろうか。つくった後に、そこへ住む人の生活はどうなるのだろう。

エベネザー・ハワード、ロバート・モーゼス、ジェイン・ジェイコブズ、ヤン・ゲール、ウォルト・ディズニー。理想を描き、実際に工事を進め、あるいは計画へ異議を唱えた人びとの仕事を比べてみよう。

五人が見ていた、違う街の姿

  • エベネザー・ハワード(1850–1928):イギリスの社会改革家。都市の仕事と農村の緑を結びつける田園都市を考え、レッチワースの建設に関わった。
  • ロバート・モーゼス(1888–1981):ニューヨークで公園、橋、道路を進めた行政の実務家。市民が海や郊外へ出かける道を増やした一方、住宅地を分断する道路も建設した。
  • ジェイン・ジェイコブズ(1916–2006):街の暮らしを観察した書き手。近所を歩く人、商店、住宅の働きを本にし、自分が暮らす地区の再開発計画にも反対した。
  • ヤン・ゲール(1936–):デンマークの建築家。歩く、立つ、座るという人の行動を調べ、街路や広場をどう改善するかを考えた。
  • ウォルト・ディズニー(1901–1966):映画とテーマパークをつくった経営者。最後の時期に、テーマパークを越えた未来都市の構想を示した。

誰もが「良い街」を考えたが、何を問題としたかが違っていた。ハワードは都市に集中する人の暮らしを、モーゼスは交通や公園を、ジェイコブズとゲールは通りを使う人の行動を、ディズニーは新しい技術と生活のあり方を見ていた。

ハワード――街と田舎の良さを、一つの場所へ

1898年、三つの磁石を描く

19世紀末、工業化の進んだイギリスの大都市では、仕事を求めて人が集中していた。工場や店が集まる一方、住宅は混み合い、汚れた空気や高い家賃が人びとを苦しめた。

エベネザー・ハワードは、1898年に『明日――真の改革へ至る平和な道』という本を出した。彼は建築家というより、働きながら社会を変える方法を考えた人だった。

本には三つの磁石の図がある。「都市」「農村」「都市と農村を合わせた場所」。都市には仕事や賑わいがあるが、混雑や家賃の問題がある。農村には緑や空気の良さがあるが、仕事やサービスが乏しいこともある。その良い点を組み合わせた街へ人を呼ぼうという構想だった。

ハワードが考えた田園都市には住宅だけでなく仕事場や店、公共施設があり、街の周囲には農地が残る。さらに土地を共同の仕組みで管理し、そこから生まれる収入を街の利益へ戻すことも重視した。緑の多い街を描くだけでなく、その土地とお金を誰が持つかまでが計画の一部だった。

1903年、レッチワースで工事が始まった

イギリス北部ハートフォードシャーに土地を取得し、1903年、最初の田園都市レッチワースの建設が始まった。街の具体的な計画には、建築家バリー・パーカーとレイモンド・アンウィンが携わった。

広い道路や緑のある住宅地、仕事場などが整えられ、人が実際に移り住んだ。1914年には約9000人が暮らしていた。ハワードの本にある円形の街が、図面どおり寸分違わず建ったわけではない。地形、資金、土地所有、そこで働く人の需要に合わせて、現実の街ができていった。

その後、街の資産をどのように管理し、利益を地域へ戻すかは、会社や公的機関、財団へと担い手を変えながら続いた。理想都市は、建てて終わりの作品ではない。住む人が増え、道路や家が古くなり、経営する人も代わっていく場所だった。

モーゼス――道路と公園を、行政の力でつくった

1929年、車で海へ向かう場所を開いた

ロバート・モーゼスはニューヨークで法律や行政の仕事を学び、1920年代には州の公園整備を進める立場となった。

モーゼスの仕事で知られる一つが、1929年に開かれたジョーンズ・ビーチである。ロングアイランドの海岸に大きな公園と海水浴場を整え、そこへ人が行けるよう道路や駐車場も用意した。

都市で働く人びとが、休日に海辺へ出かけられる場所を増やす。モーゼスが考えたのは公園一つの景色だけではなかった。家を出て車で走り、駐車して海へ着くまでを、ひと続きに整える仕事だった。

当時、自家用車を持っているかどうかで行ける場所は違っていた。道路でつながった公園は新しい楽しみをもたらしたが、車のない人に同じ便利さが生まれたわけではない。

高速道路が通ると、家はどうなるのか

モーゼスはその後も多くの道路や橋を進めた。ニューヨークのブロンクス地区を東西に通るクロス・ブロンクス高速道路は、車が広い地域を移動する道になった。一方、道路を通すために建物が壊され、地域を離れなければならない人びともいた。

広い道路が図面の上でまっすぐにつながると、車は走りやすい。しかし、その線の下には住まい、店、学校へ通う道、隣人との暮らしがあった。

実際につくられた道路と、つくられなかった道路もある。マンハッタン南部を横断する高速道路の構想は、反対する人びととの対立の中で実現しなかった。大きな工事を進められる権力にも、住民や政治の判断との関係があったのである。

ジェイコブズ――歩道にいる人びとの暮らしを見た

1961年、図面ではなく、街の生活から本を書く

ジェイン・ジェイコブズは、ニューヨークで記者として働き、街を歩いて商店や仕事場を取材してきた人だった。夫や子どもと暮らすウェスト・ヴィレッジで、再開発の計画が持ち上がる。

1961年に刊行した『アメリカ大都市の死と生』では、住宅、店、仕事場などが入り交じる街路の働きを説明した。朝には働く人が歩き、昼には買い物の人が来て、夕方には子どもが帰る。通りを使う人が時間とともに入れ替わることで、人の目が自然に届く場所ができる。

公園や広場を広くとれば必ず人が集まるわけではない。そこへ行く用事のある人、座って過ごす人、近所で働く人がいなければ、立派な空間も空いたままになる。

ジェイコブズは、建物の形をきれいに並べる計画より、そこへ住む人が普段何をしているのかを考えるよう求めた。

道路の計画に、住民たちと反対する

ジェイコブズは1961年、ウェスト・ヴィレッジの再開発に反対する住民の代表として記者会見に立った。さらにマンハッタン南部を横断する高速道路の計画を止めようとする運動にも加わった。

モーゼスの道路計画で移動が便利になる人はいる。しかし、通過する車が便利になることと、道路の予定地で暮らす人が同じように便利になることは違う。ジェイコブズたちは、その違いを街の中から訴えた。

計画は実現しなかった。止めたのはジェイコブズ一人ではなく、住民や商店主、地域の組織など多くの人の活動だった。

ここで現れたのは、行政が描いた都市の将来に、そこで暮らす人びとが別の案を出し、計画を変えようとする姿である。

ゲール――街を設計する前に、人の動きを調べた

1962年、車が通らない商店街ができた

デンマークの首都コペンハーゲンでは1962年、市の判断によって、中心部の商店街ストロイエが歩行者のための道になった。車を減らせば商売が成り立たなくなるのではないかという心配もあったが、街は少しずつ変わっていった。

この決定を下したのはヤン・ゲールではない。ゲールは建築家として1960年に大学を卒業し、その後、人が街でどう行動するのかを調べる仕事へ進んだ。

1965年には心理学者の妻イングリッドとイタリアの都市を訪ね、広場で人がどこに座り、どれほど長く過ごすかを観察した。1968年には同僚や学生とともにコペンハーゲンの公共空間を調査するようになる。

ベンチに座る人を数える

「歩く人が増えた」と感じるだけでは、計画がうまくいったか分からない。ゲールたちは、季節や曜日、時間帯を変えて、通る人の数や立ち止まる場所を記録した。

夏の日曜に人が集まる通りと、冬の平日の夕方にも誰かが座っている通りは、同じように使われているわけではない。広場の大きさを測るだけでなく、どの場所で人が過ごしたかを数える。そうした調査は、ベンチの配置、歩道の幅、車との関係を考える材料になった。

1992年、ゲールはオーストラリアのパースでも街の調査を行った。中心部が仕事の終わる夜には人の少ない場所になっていることに気づき、飲食店や暮らしの場がどこへ集まっているのかを調べた。

図面の上で計画したことと、出来上がった場所をどう使っているかを、実際の人の行動から確かめる仕事だった。

ディズニー――遊園地の次に、人が住む街を考えた

1955年、ディズニーランドが開いた

ウォルト・ディズニーはアニメーション映画で知られる経営者だが、1950年代から実際に人が歩く場所もつくろうとした。

1955年、カリフォルニアにディズニーランドが開園した。お客が入り口から通りを歩き、店に立ち寄り、乗り物に乗り、夜には帰る。映画の中に入ったような体験を、建物、道、照明、音楽、店員の仕事を組み合わせて用意した場所だった。

しかしディズニーランドは、基本的には人が訪れるための施設である。長い年月、そこで子どもを育て、働き、学校へ通う街とは違う。

1966年、未来の街「EPCOT」を発表する

1966年10月、ディズニーはフロリダでの計画を紹介する映像を撮影した。そこで示したのがEPCOT(エプコット)。新しい技術を日常の暮らしの中で使い、交通、住宅、商業施設などを組み合わせる、実際に人が住む未来都市の構想だった。

交通手段や街の構造を計画し、暮らしの仕組みを更新し続ける街にしたいと考えていた。都市に住む人の生活を、技術や運営の仕組みから整えようとする構想である。

しかしディズニーは同じ1966年12月に亡くなった。本人が考えていた、住民が暮らす実験都市はそのまま建設されなかった。

フロリダでは1971年にウォルト・ディズニー・ワールドが開園し、1982年には「エプコット」の名前を持つテーマパークが開いた。現在のテーマパークと、1966年に構想された居住都市は同じものではない。

「理想の街」を描いた人の名前が残っても、実際にできた場所は当初の計画と違うことがある。ディズニーの構想は、その違いを考える大きな手がかりになる。

実際に街をつくるには、何が必要だったのか

① 土地とお金を、誰が持つのか

ハワードの田園都市は、建物を描くだけでなく、土地と収入を共同の利益へ戻す仕組みを考えた。実際のレッチワースでは会社や建築家、そこへ住む人が必要だった。

モーゼスは行政の法律や予算を使い、道路と公園を建設した。ディズニーは会社が持つ土地と資金を使って、未来の暮らしを考えた。計画は、誰が土地を動かし、誰が費用を負担できるかに左右される。

② 「便利」が、誰にとっての便利か

車で海へ行きやすくなった人がいた一方、高速道路の予定地から引っ越さなければならなかった人もいた。道路をまっすぐつなぐ便利さと、住宅地で過ごす便利さは必ずしも同じではない。

ジェイコブズたちは住んでいる地域を失わないように行動し、ゲールは歩行者や広場を使う人の行動を調べた。建設した側の評価と、暮らす側の経験を行き来することで、街の良し悪しを考える材料が増える。

③ 街は、完成した日から使われ始める

レッチワースは1903年の工事開始から百年以上、人が住み続けている。道路は完成後も通勤や移動に使われ、商店街は季節や時間帯によって様子を変える。ディズニーが構想した未来都市のように、建たなかった計画もある。

良い街をつくることは、良い図面を描くことで終わらない。 暮らしが始まってから、誰が管理し、何を直し、どんな場所にしたいと考えるのかという仕事が続く。

関心から読む順番を選ぶなら

緑と仕事のある新しい街に関心があるならハワードの田園都市の歴史。道路と公園を大規模につくる仕事ならモーゼス。住民の暮らしから都市を考える方法ならジェイコブズ。人の行動を調べる都市設計ならゲール。テーマパークから未来都市へ広がった構想ならディズニーが入口になる。

五人を並べると、理想都市には一つの答えがないことが見えてくる。どんな街に住みたいかを思い描く人、図面を引く人、工事を進める人、そこで暮らす人。街は、その人びとの仕事が重なる場所なのである。

関連する資料として、レッチワース田園都市財団の沿革、ニューヨーク市公文書館によるモーゼスの都市計画、ディズニー公式資料に残る1966年のEPCOT構想も参照できる。

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