教会で祈ることと、学校で学ぶこと。信仰と政治。今の日本では、それぞれ別のものだと感じる人も多いだろう。しかし歴史を振り返ると、聖書をどの言葉で読むか、学校で何を教えるか、国の儀式でどう振る舞うかが、一人の人生を大きく変えてきた。
1517年、ドイツの大学で神学を教えるマルティン・ルターが、教会をめぐる討論文書を公表した。約350年後の日本では、中村正直が西洋の書物を訳して学校をつくり、内村鑑三が教育勅語への礼をめぐって教職を離れた。
3人に直接の師弟関係はないし、信仰の考え方も同じではない。それでも、それぞれの人生には個人が何を信じるかという問題が、教育や公の制度とぶつかる場面がある。
3人の仕事を先に知る
- マルティン・ルター(1483–1546):カトリック教会の内部で聖書を教え、教会の権威をめぐる論争から宗教改革へ進んだ。ドイツ語の聖書翻訳にも取り組んだ。
- 中村正直(1832–1891):幕府の儒学者から明治の教育者となり、『西国立志編』『自由之理』を翻訳した。キリスト教の洗礼を受けた後も、儒学と教育に携わった。
- 内村鑑三(1861–1930):札幌農学校でキリスト教に出会い、学校の儀式をめぐる事件を経験した。後に雑誌と聖書講義を中心に、教会の組織に頼らない信仰の集まりを育てた。
ルターが暮らしたのは、宗教と政治が深く結びついていた16世紀のヨーロッパ。中村と内村は、明治政府が学校や国家の制度を整えていた時代の日本に生きた。その違いを踏まえて、具体的な出来事をたどろう。
ルター――大学の討論が、町の人びとへ広がった
1517年、教会の「赦し」をめぐる議論
マルティン・ルターは法律家を目指して大学で学んだ後、1505年に修道院へ入った。やがて神学を学び、ヴィッテンベルク大学で聖書を教えるようになる。
1517年10月31日、ルターは『九十五箇条の提題』を公表した。中心にあったのは贖宥状をめぐる問題だった。贖宥状とは、罪の償いに関わる教会の制度のもとで発行されていた文書で、当時はその販売のあり方が批判されていた。
ルターの文書はもともと大学の討論に向けたものだった。ところが印刷によって広まり、教会の権威そのものを問う大きな論争になった。研究者が学内で書いた文章が、町の人びとにも届くようになったのである。
1521年、書いたことを撤回するかと問われる
1521年4月、ルターはヴォルムス帝国議会に呼び出された。皇帝の前で自分の著作を撤回するか問われ、初日は答える時間を求める。翌日、聖書や理性に照らして誤りを示されないかぎり撤回できないと答えた。
ここでは信仰の解釈が、個人の心にとどまっていない。何を書き、何を教えてよいかという問題が、教会と帝国の権力に関わっていた。
その後、ルターはヴァルトブルク城で身を隠しながら聖書のドイツ語訳に取り組み、1522年に新約聖書を刊行した。1534年には旧約と新約を含む聖書を共同作業で完成させた。専門家が用いるラテン語だけでなく、人びとが日常に使う言葉で聖書に近づく道を広げた。
学ぶ場所が、家庭にも広がる
1525年、ルターは元修道女カタリナ・フォン・ボラと結婚した。二人の家庭には学生や来客が集まり、信仰についての話し合いも行われた。1529年の『小教理問答』は、信仰の基本を家庭や教会で学べるよう整理した本だった。
一方、1543年にはユダヤ人への迫害をあおる文章も刊行している。聖書を広く読める言葉にした人物は、その出版の力を他者の排除にも用いた。印刷された言葉は学びにも対立にもつながった。
中村正直――外国の思想を訳し、日本に学校をつくった
幕府がなくなった後、教える仕事を続ける
中村正直は江戸の武家に生まれ、幕府の昌平坂学問所で儒学を学んだ。やがて教員となり、1866年には幕府の留学生を監督するためイギリスへ渡る。
1868年の帰国時には幕府がなくなっていた。中村は静岡で教える仕事を始め、イギリスの著述家サミュエル・スマイルズの『セルフ・ヘルプ』を『西国立志編』として訳した。続いて、思想家ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』も『自由之理』として紹介する。
江戸時代には、学問所へ通う学生を教えていた。明治になると、今度は訳書が全国の読者へ届いた。中村が伝えたのはキリスト教の教義だけではなく、勤勉や自由、教育をめぐる西洋の考え方だった。
洗礼を受けても、儒学を捨てなかった
1873年、中村は東京で私塾「同人社」を開いた。翌1874年にはキリスト教の洗礼を受ける。それまで学んできた儒教の道徳と、新しく接したキリスト教の教えを、一人の人間の中で考え続けることになった。
1875年には仲間と楽善会を組織し、目や耳に障害のある子どもたちの教育へ道を開こうとした。東京女子師範学校の運営にも関わり、後には東京大学で漢学を教えている。信仰の経験は、中村の教育活動と並んで存在していた。
1890年、採用されなかった教育勅語の草案
1890年、明治政府は学校教育の基本となる道徳を、天皇の言葉として示す「教育勅語」を準備していた。中村もその草案を書いた。その案には、儒教だけでなくキリスト教や西洋思想の要素も含まれていた。
政府内では異論が出た。法制局長官の井上毅は、中村案のキリスト教的な色彩などを批判し、別の案づくりを進めた。結果として、中村案は採用されなかった。
前年までの中村の仕事を並べると、翻訳、洗礼、私塾、女子教育、障害児教育、大学教授と幅広い。だが国の教育方針を一つの文章に定める段階では、彼が組み合わせてきた複数の思想が、そのまま受け入れられたわけではなかった。
内村鑑三――学校での礼から、教会の外の集まりへ
1891年、頭を深く下げなかった
内村鑑三は1861年に江戸で生まれ、1877年に札幌農学校へ進んだ。そこでキリスト教に出会い、翌年に洗礼を受ける。アメリカでの留学などを経て帰国し、1890年には第一高等中学校の教員となった。
1891年1月9日、学校で教育勅語奉読式が行われた。内村は周囲と同じような深い礼をせず、わずかに頭を下げた。その行動は「不敬」として大きな批判を浴び、翌月、学校を離れることになった。
内村自身は、信仰上の礼拝と国家の儀式の関係に迷っていた。事件後には改めて礼をすることにも同意したが、病気のため実現しなかった。学校の儀式での短い振る舞いが、職業を失うほどの問題になった。
聖書を読む場所を、自分たちでつくる
教職を離れた内村は、著述や新聞の仕事へ進んだ。1900年に『聖書之研究』を創刊し、翌年には『無教会』を刊行する。無教会とは、教会の建物や教派への所属を、信仰のための必須条件としない考え方だ。
ルターが既存の教会の内部から改革を始めたのに対し、内村は雑誌や講義で人が集まる道を広げた。信仰を伝える場所そのものが違っている。
内村は国家についても考えを変えていく。日清戦争を当初は支持したが、日露戦争を前に非戦論を主張し、1903年には新聞『万朝報』を去った。信仰と祖国への愛着を持ちながら、戦争についての判断は一生同じではなかった。
3人を並べると、信仰と社会の接点が見える
① 人びとへ言葉を届ける方法
ルターは印刷物と聖書の翻訳、中村は西洋書の翻訳と学校、内村は雑誌と聖書講義を使った。ルターの時代には印刷が宗教論争を町へ運んだ。明治の日本では、外国語の本を日本語にすることや、学校や講義の場をつくることが、人びとが新しい考えに触れる機会になった。
② 学校や教会には、何を教えるかを決める力があった
ルターの大学での討論は教会の権威をめぐる争いになった。中村の教育勅語草案は政府内で採用されなかった。内村は国の儀式での礼をめぐって教職を離れた。それぞれ、誰が正しい教えを決めるのかが問題となった。
ただし、ルターは16世紀の教会改革に関わった神学者であり、中村は日本の教育制度づくりに参加した教育者、内村は学校の現場から著述へ進んだ宗教思想家だった。3人に同じ政治的な自由が認められていたわけではなく、担った役割も異なる。
③ 信仰の形は、生活の場所にも現れた
ルターの家には学生が集まり、中村は私塾や学校を支え、内村の周囲には講義を聞きに来る人びとが集まった。信仰や思想は本の中だけで語られたのではなく、人が学ぶ場所をどうつくるかにもつながっていた。
最初の一人を選ぶなら
宗教改革と聖書の翻訳ならルター。明治の翻訳と教育なら中村正直。国家と個人の信仰なら内村鑑三から読むとよい。
日本の明治という時代を中心に知りたい場合は、明治の思想家7人も参考になる。中村と内村の仕事を、福沢諭吉や文学者たちの人生と並べて読むことができる。


