スマートフォンの中には、電気の流れを制御する小さな部品が無数にある。遠くの病院へ行くためには、都市の交通と施設の配置が関わる。会社で働く人が賃金や労働条件について交渉するときには、法律や組合の制度が関わる。
半導体、都市の配置、働く人の権利。一見別の話だが、どれにも専門家が調べたり考えたりしたことが使われている。研究室や机の上で生まれた知識は、どのようにして社会の中で働くのだろう。
ここでは、物理学者ウィリアム・ショックレー、地理学者ヴァルター・クリスタラー、経済政策に携わったフリッツ・ナフタリを取り上げる。3人は同じ学問の研究者ではない。知識が社会へ届く道が、製品、国家の空間計画、労働と経済の制度でどう違うかを比べる。
3人の知識は、何に使われたのか
- ショックレー(1910–1989):ベル研究所で半導体の研究を進め、トランジスタの発展に貢献した。後年は人種と知能について、専門領域を越えた主張を行った。
- クリスタラー(1893–1969):都市や町の配置を説明する中心地理論を発表した。第二次世界大戦中、ナチスの占領地計画に携わった。
- ナフタリ(1888–1961):働く人が企業や経済の決定に参加する「経済民主主義」の構想をまとめた。ナチスに迫害されてドイツを離れ、移住先では銀行や政府の仕事に携わった。
ショックレーは実験と理論、クリスタラーは都市を説明するモデル、ナフタリは制度を変えるための政策構想に取り組んだ。その違いを具体的に見ていこう。
ショックレー――研究成果が、電子機器の部品になる
1947年、トランジスタが動いた
ウィリアム・ショックレーは1910年に生まれ、物理学を学んでベル電話研究所に入った。1939年には、真空管の代わりに半導体を使う装置を考え、研究ノートに構想を書き残している。
当時の真空管は、電気信号を増幅するために使われていた。無線機などで重要な部品だが、大きく、熱を出し、壊れやすいという欠点もあった。半導体を用いて電気の流れを制御できれば、小さくて丈夫な電子機器への道が開ける。
第二次世界大戦後、ショックレーはベル研究所で研究グループを率いた。1947年12月、グループのジョン・バーディーンとウォルター・ブラッテンが、点接触型トランジスタの動作を実証する。その後、ショックレーは接合型トランジスタの理論を進めた。1956年、3人はノーベル物理学賞を共同受賞した。
この成果が一人の机から、そのまま製品になったわけではない。理論を考える人、実験装置を組む人、材料や製造法を改良する人がいた。半導体の技術が社会へ広がるには、研究所の外にある製造と産業の仕事も必要だった。
1957年、研究仲間が会社を去った
ショックレーは1955年にベル研究所を離れ、カリフォルニアに自分の半導体研究所をつくった。しかし経営や人との関わりに問題が生じ、1957年には主要な研究者8人がそろって辞めた。彼らは新しい会社を起こし、その流れは後の半導体産業の発展につながっていく。
1960年代以降、ショックレーは人種集団間の知能差を遺伝で説明しようとする主張を公に語った。これらは研究者たちから強い批判を受けた。トランジスタ研究での功績によって、人種や知能をめぐる別分野の主張が裏付けられるわけではない。彼の人生には、優れた研究成果と、それとは異なる根拠で検討されるべき社会的主張がともに残っている。
クリスタラー――町の配置を説明する理論が、国家の計画へ入る
1933年、町を六角形で考えた
ヴァルター・クリスタラーは1893年にドイツで生まれた。建設関係の仕事などを経験した後、30代後半から地理学の研究を進め、1933年に『南ドイツの中心地』を刊行した。
たとえばパン屋なら近所に一軒あれば便利だが、高度な医療を受けるためには遠くの大都市へ向かうこともある。商品やサービスによって、必要とする客の数も、人が通える距離も違う。
クリスタラーは、その違いから大小の都市の関係を説明した。多くの機能を持つ大きな中心地と、日常的な買い物などを支える小さな中心地が、どのように分布するかという理論だ。条件を単純化した図では、町を中心にした市場圏が六角形で表される。
六角形は現実の土地にそのまま描かれた境界ではない。地形や交通などをいったん単純化して、都市の関係を理解するために使われる図である。
1940年代、占領地の計画に関わる
中心地理論は、学校や商店をどこへ置くかといった地域計画にも役立つ知識だった。しかし、第二次世界大戦期のドイツでは、占領地を支配し、住民を追放し、ドイツ人を入植させようとするナチスの政策にも、地理学や都市計画の知識が使われた。
クリスタラー自身も、ヒムラーのもとにあった空間計画の機関で働いた。1940年にはナチ党に加入している。町の配置を説明する理論が、人びとを強制的に移動させる国家計画にも結びついたのである。
戦後、中心地理論は都市地理学や商圏分析の基礎的な理論として国際的に広まった。同じ研究成果が、都市を理解する手がかりにも、政治権力が土地を管理する道具にもなったという歴史がある。
ナフタリ――経済の決定に、働く人の声を入れようとした
1928年、経済民主主義の構想をまとめる
フリッツ・ナフタリは1888年にベルリンで生まれ、商業教育を受けて経済記者となった。ドイツの新聞社で働いた後、労働組合に近い経済政策の研究機関を率いるようになる。
1928年、ナフタリは仲間の研究者らとともに『経済民主主義――その本質・道・目標』をまとめた。当時のドイツには選挙と議会があったが、会社の経営や働く条件については、資本を持つ側が強い力を握っていた。
ナフタリたちが考えたのは、働く人が企業の意思決定に関わること、協同組合や公共企業を育てること、経済の仕組みを社会全体の利益へ近づけることだった。ここでいう「経済民主主義」は、単に商品を安く買える社会という意味ではない。会社や経済の決めごとに、誰が参加できるかという問題だった。
この構想は、自然界の法則を見つける物理学とは性格が違う。どういう経済制度をつくるべきかという、政治的な提案でもあった。
1933年、職を失い、別の国へ移る
1933年、ナチス政権が成立した。ユダヤ人であり、社会民主主義と労働運動に関わっていたナフタリは逮捕され、釈放後にドイツを離れてパレスチナへ移った。
そこで経済学を教え、1938年には労働運動系の銀行の経営に携わる。1949年にはイスラエルの国会議員となり、1950年代には閣僚も務めた。ドイツでは制度の改革を提案していた人が、移住先では銀行や政府の制度を動かす立場に立った。
クリスタラーがナチス政権の計画に専門家として関わったのに対し、ナフタリはその政権に迫害されて国を追われた。二人の政治的な立場は大きく異なっていた。
知識が社会へ届くまでに、何が違ったのか
① 発見、説明、提案は同じ仕事ではない
ショックレーは半導体の性質を調べ、装置を実現する研究に携わった。クリスタラーは町の配置に規則性を見つけようとした。ナフタリは企業と経済をどう運営するべきかを提案した。
ショックレーの仕事は実験で確かめられる物理現象に関わり、クリスタラーの理論は条件を単純化した都市のモデルだった。ナフタリの著作は、経済制度を変えるための政策構想だった。何を根拠に評価するかも、それぞれ違ってくる。
② 知識を使う側にも、人がいた
ベル研究所の成果を製品にするには、企業や技術者が必要だった。クリスタラーの理論を政策に用いたのは、占領地を支配する権力を持った国家機関だった。ナフタリは政策を提案する側から、移住後には銀行や政府を運営する側へ移った。
知識の内容だけでなく、誰が何のために使うのかによって、人びとの生活への影響は変わる。
③ 研究や構想を生んだ本人にも、その後の人生がある
ショックレーは技術の発展に寄与しながら、後年は別の分野で問題のある主張を行った。クリスタラーは都市を説明する理論を、ナチスの空間計画と結びつける仕事に携わった。ナフタリは経済民主主義を考えた後、その構想を生んだ国を追われ、別の社会の制度づくりに参加した。
3人の仕事は、学問の成果が社会の中に置かれるとき、研究所や本の外で新たな役割を持つことを示している。
どこから読めばよいか
発明と半導体産業ならショックレー。都市の配置と国の計画ならクリスタラー。働く人の決定権と経済制度ならナフタリから始めるとよい。
経済民主主義の考え方をさらに知りたい場合には、経済を「民主化」すると、人は幸せになるのか?で、ナフタリと異なる経済改革の考え方を比較している。

