学校は何のためにあるのだろう。知識を教えるため。仕事に役立つ技能を身につけるため。自分で考えられるようになるため。どれも大切だが、歴史を振り返ると、その前にもっと基本的な問題があった。
そもそも、誰が学ぶことを許されていたのか。 学べるとしても、何を、どんな言葉や方法で学べるのか。学んだ後に、その力を使える場所はあったのか。
教育の歴史には、学校を設立した人だけでなく、学びの内容を変えた人、知識を届けるための文字を考案した人、支援を受けながら学ぶ側から社会へ発言した人がいる。
ここでは7人を、学びへの入口を増やした人/学び方を変えた人/学びの権利と条件を考えさせる人として紹介する。全員を同じ意味での「教育学者」と呼ぶわけではない。
教育を考える3つの物差し
- 機会:学びたい人に、学校・教材・先生が届くか。女性や障害のある人が排除されていないか。
- 内容:何を学ぶべきだとされたのか。語学、科学、道徳、仕事に必要な知識を誰が選んだのか。
- 方法:暗記、読書、対話、実験、手作業など、どんな経験が学びにつながるのか。
三つを分けると、同じ「教育改革」でも一人ひとりの仕事がまったく違うことがわかる。
幕末・明治――新しい知識を誰へ届けるか
福沢諭吉:自分で学ぶことと、独立を結びつけた
福沢諭吉は1835年に生まれ、大坂の適塾で蘭学を学んだ。1859年、横浜に出たときには、身につけたオランダ語が思うように通じず、英語の学習に切り替えている。学んだ知識が新しい社会でそのまま使えるとは限らないことを、本人が経験していた。
その後、江戸で始めた塾を慶應義塾へ育て、1872年には『学問のすゝめ』初編を刊行した。学問と個人の独立を結びつける発想は、身分だけで人の進路が決まっていた時代を考えると大きな意味を持つ。
しかし、彼の思想を「学べば誰もが完全に自由になれる」という単純な励ましとして読むのは十分ではない。後年の国権や対外論には別の問題もある。何のために学ぶのかという理想が、国家をどう考えるかと結びついて変わっていった生涯まで読みたい。
中村正直:外国の考えを訳し、学校の入口をつくった
中村正直は幕府の儒官として学び、1866年には留学生の監督としてイギリスへ渡った。維新後は静岡で教育に携わり、スマイルズの『西国立志編』やミルの『自由之理』を翻訳した。
翻訳とは、外国語の文章を日本語に置き換えるだけの仕事ではない。「自分の努力」「自由」「教育」をどんな言葉として社会へ届けるのかを選ぶ仕事でもあった。中村は1873年に同人社を開き、学びの場もつくった。
さらに1875年、津田仙らと楽善会を組織し、視覚障害者の教育を進めようとした。女子師範教育にも関わっている。学問を説くことから、誰がその学問へ近づけるかを考えることへ、活動が広がっていった人物だ。
津田梅子:日本で女子教育の場を育てた
津田梅子は、1871年に6歳でアメリカへ渡った女子留学生の一人。言葉も生活環境も大きく違う場所で長く学び、帰国後は日本の女子教育に力を注いだ。のちに女子英学塾を開く仕事へつながっていく。
彼女の人生を「海外で英語を身につけた優秀な人」として終わらせると、大切な点を見落とす。語学を学べることと、学んだ女性が社会で自分の道を選べることは同じではなかった。だから学ぶための場所をつくることが意味を持った。
福沢や中村と並べると、教育に西洋の知識を取り入れるという似た話でも、対象となる学生や、学校が越えようとした壁が違って見える。
巌本善治:学校と雑誌を、発言する場所にした
巌本善治は、若いころ中村正直の同人社で学び、後に『女学雑誌』の編集と明治女学校の運営に深く関わった。1892年の『吾党之女子教育』では、女子教育についての方針を示している。
彼が関わった場所では、生徒が文章を書き、教師の考えに異議を唱える場面もあった。教育を、知識を上から与えるだけではない営みとして考えるための手がかりになる。
もちろん運営者の理想が本人の行動にいつも一致していたわけではない。巌本には女性関係をめぐる批判も残る。教育を語る人物を理想化せず、学校で掲げた言葉と実際に築いた人間関係の両方を読む必要がある。
アメリカ――何を教えるかより、どう経験するか
ジョン・デューイ:小さな学校で学び方を試した
ジョン・デューイは哲学者だが、教育を机上の議論で終わらせなかった。1896年、シカゴで15人の子どもと実験学校を始めた。子どもたちは、布の材料や作り方を調べ、調理や工作から科学や歴史へ入る。手を動かすことと考えることを分けない授業だった。
ここで大事なのは、単に**「自由に遊ばせればよい」教育ではなかった**ことだ。教師は道具や材料を用意し、活動からどんな学びが生まれるかを考え、次の問いへつないだ。
デューイの学校は大きくなった後、本人が去ることになった。理論が良いからといって、学校運営の現実が自動的に整うわけではない。晩年には、どんな経験でも教育になるのではなく、その経験の質を見きわめる必要があると論じた。
教師が話すか、子どもが活動するかという二択より、経験をどう知識へ育てるか。その点に関心がある人の入口になる。
文字と支援――学べるようになる条件をつくる
ルイ・ブライユ:読むだけでなく書ける文字をつくった
ルイ・ブライユは1809年にフランスに生まれ、幼少期の事故の後、視力を失った。パリの盲学校へ進むと、当時用いられていた浮き出し文字などに触れた。
つまり、点字以前には視覚障害のある人がまったく学べなかったという話ではない。ただ、既存の方法は扱いにくく、学ぶ人自身が効率よく読み書きするには大きな制約があった。
ブライユは、触覚で区別できる点の組み合わせを使った6点式の文字を考案し、1829年にその方法を説明する本を出した。新しい文字がすぐに学校全体で受け入れられたわけではなく、その普及には時間がかかった。
この人物から見えるのは、教育の機会をつくるとは学校を一棟建てるだけではなく、知識へ到達するための道具を変えることでもある、ということだ。
ヘレン・ケラー:学ぶ当事者の人生を読む
ヘレン・ケラーは1880年にアメリカに生まれ、幼いころ病気によって視覚と聴覚を失った。1887年に教師アン・サリヴァンが家庭へ来て、指文字などによる学びが始まる。水に触れながら手に文字を綴る場面は、よく知られたエピソードだ。
しかし「ある日突然すべてを理解して成功した」という奇跡の物語として読むと、家族、教師、教材、学校、長い学習の時間が見えなくなる。ケラーは教育を受けた後、著述や社会活動へと活動を広げた。
彼女は点字を発明した人ではないし、ブライユはケラーの教師だったわけでもない。二人を並べる意味は、学ぶ手段をつくることと、実際にその手段や支援を使って学び続けることの両方が重要だと分かる点にある。
障害のある人についても、「努力すれば何でもできる」という話にしないほうがよい。本人の努力に加えて、学べる環境を誰がどう整えたかを見ることが、教育史を読む意味につながる。
7人を3つの角度から比べ直す
「学ぶ権利」があるだけでは足りない
中村が視覚障害者教育に関わり、津田が女子教育の場をつくり、ブライユが触覚で扱える文字を工夫したことは、違う種類の仕事だ。それでも、学びたいと思った人が実際に学べるかという問題ではつながっている。
法律や理念に「教育が大切」と書かれていても、学校、教科書、文字、教員、学び終えた後の進路がなければ、機会は形にならない。
学ぶ内容も、時代によって変わる
福沢や中村にとっては、外国から入ってくる知識や制度をどう学び直すかが切実だった。巌本や津田にとっては、女子教育の内容と、その先の人生が問題になった。デューイは、学問と子どもの実際の経験が切り離されることを問い直した。
「教育」をひとまとめにするより、何を必要な知識とみなしたのかを聞くほうが、それぞれの時代が見える。
よい方法は、学ぶ人と環境によって違う
デューイの実験学校での活動と、ブライユの点字は、同じ教育方法ではない。ケラーがサリヴァンと学んだ環境も、津田が長く海外で学んだ環境も違う。
ここから出てくるのは、「すべての人に最適な一つの授業法がある」という結論ではない。何を学ぶにも、その人が使える言葉や道具、関わる他者との条件があるという視点だ。
最初の一人を選ぶなら
学問と独立なら福沢諭吉、翻訳と学校の広がりなら中村正直。女子教育なら津田梅子→巌本善治。学校の授業方法ならジョン・デューイ。読み書きの道具と教育の機会ならルイ・ブライユ→ヘレン・ケラー。
より広い女性史の中で読み直すなら、既存の日本の女性解放とフェミニズムの人物ガイドも入口になる。
教育の歴史は、偉い先生が良い教えを考えて完成した歴史ではない。新しく学ぼうとする人が現れるたびに、制度、内容、方法が作り直されてきた歴史としても読める。






