学校や会社、役所、軍隊。人は一人だけで生きているわけではない。組織に属して働くときには、本人の考えとは別に守らなければならない規則や役割がある。
それでも、所属する組織が求めることと、自分が正しいと思うことが食い違ったら、どうすればよいのだろう。
ここでは、外交官の杉原千畝、米海軍軍人のジェームズ・ストックデール、教育者で宗教思想家の内村鑑三、歴史家のヨハン・ホイジンガの4人を取り上げる。生きた時代も職業も、迫られた判断の重さも違う。
杉原は外交官としてビザを発給し、ストックデールは捕虜として仲間を守ろうとした。内村は学校での礼をめぐって職を失い、ホイジンガは占領下で大学を去った。同じ組織と個人の問題でも、職務と置かれた状況によって選べる行動は違った。
4人が立っていた場所
- 杉原千畝:1940年、リトアニアの日本領事館で、日本を経由して逃れようとする人びとのビザ発給に向き合った外交官。
- ジェームズ・ストックデール:1965年に北ベトナムで撃墜され、長い捕虜生活の中で仲間をどう守るかを考え続けた米海軍軍人。
- 内村鑑三:1891年、学校の教育勅語奉読式での礼をめぐり批判を受け、教職を離れたキリスト教思想家。
- ヨハン・ホイジンガ:ナチス占領下のオランダで研究と教育を続け、大学を離れ、1942年には人質として拘束された歴史家。
外交の手続き、捕虜収容所での強制、学校の儀式、占領下の大学。4人が向き合った権限や制約には、大きな隔たりがあった。
杉原千畝――国境を越えようとする人々と向き合う
1940年、カウナスの日本領事館で
杉原千畝は1900年に生まれ、外交官として外国語や国際情勢を学び、ヨーロッパで勤務した。1940年、リトアニアのカウナスに置かれた日本領事館にいた杉原の前には、ナチスの迫害から逃れようとするユダヤ人難民らが訪れるようになった。
難民たちは、日本を経由して別の国へ逃れるための通過査証、つまりビザを求めた。ビザとは、ある国に入る、または通過するための手続きに関わる文書のことだ。書類一枚を発給するかどうかが、その人の移動の可能性に関わっていた。
杉原は多数のビザを発給し、その行動は後に「命のビザ」と呼ばれるようになった。発給の判断には日本側の査証規則だけでなく、難民たちの旅券や行き先、日本から先へ移動するための条件も関わっていた。領事館に集まった人びとにとって、手続きの一つひとつが切実な問題だった。
書類を扱う仕事が、人の運命と結びつく
外交官の仕事には、制度に従って判断する責任がある。一方、制度の運用が実際に誰に何をもたらすかを、目の前で見ることもある。
杉原の前には、規則に沿って書類を扱う外交官の仕事があり、同時に、出国を急ぐ人びとがいた。ビザを発給する権限が、目の前の人びとの移動を左右する場面だった。
ストックデール――命令を出す側が、捕虜になった
1965年9月、飛行任務から捕虜生活へ
ジェームズ・ストックデールは1923年生まれの米海軍パイロット。部隊を率いる経験を重ね、1960年代初めにはスタンフォード大学で国際関係論を学んだ。そのころ出会ったのが、古代ストア派の哲学者エピクテトスの教えだった。
1965年9月9日、北ベトナムへの飛行任務中に機体が撃墜される。ストックデールは捕虜となり、1973年まで約7年半を拘束下で過ごした。
軍の指揮官だった人物が、自分の生活さえ思うように決められない場所へ置かれたのである。ここでは、直属の上司から仕事を命じられる場合とも、外交の規則を運用する場合とも異なる問題が生じた。
仲間を守りながら、何を選べたのか
捕虜に対する強制や宣伝への協力要求の中で、ストックデールは仲間との連絡や抵抗の方法を考えた。1969年には宣伝目的の撮影をめぐって厳しい状況に直面したことも、本人の記録に残る。
帰還後、彼はエピクテトスの哲学と捕虜経験を結びつけて語った。自分の力が及ぶことと及ばないことを区別する、という考えである。
ストックデールは暴力や拘束によって身体の自由を奪われながら、仲間との連絡や収容所での抵抗の方法を考え続けた。彼が帰還後に語ったストア派の思想は、その経験と結びついている。思想の言葉だけではなく、実際に何を行ったかが残されている。
内村鑑三――学校の儀式で、ためらった
1891年、わずかな礼が問題になる
内村鑑三は1861年生まれ。札幌農学校でキリスト教に出会い、学びと仕事を経て教育者となった。
1891年1月9日、第一高等中学校で教育勅語奉読式が行われた。内村は教育勅語に対して周囲と同じような深い礼をせず、頭をわずかに下げた。この行動は「不敬」として強い批判を受け、翌月には学校を離れることになる。
内村は宗教的な礼拝と国家の儀礼の関係に悩んでいた。事件後には改めて礼をすることにも同意したが、そのときは病床にあり実現しなかった。本人のためらいが、学校の外では「不敬」という強い言葉で受け止められた。
戦争についての考えも変わっていった
内村はその後も、信仰と日本への愛着の間で考え続けた。日清戦争を支持した時期があり、のちに非戦論へ転じる。1891年の学校での事件だけでは、戦争や国家に対する彼の考えの変化までは見えない。
杉原が外交の現場で文書を発給したのに対し、内村の場合は学校の儀式での一瞬の振る舞いが、大きな社会問題になった。本人が意図した行動と、社会が受け取った意味は一致しないことがある。
ホイジンガ――歴史を研究する人が、時代に拘束される
中世を研究していた歴史家の目の前に、戦争が来る
ヨハン・ホイジンガは1872年にオランダで生まれ、言語研究を経て歴史家になった。1919年の『中世の秋』では、中世の人びとがどのような儀礼、感情、象徴の中で暮らしていたかを描いた。政治家の名前を並べるだけでなく、一つの時代の文化を理解しようとした人である。
1930年代には自分が生きる社会の危機についても文章を書いた。1940年、ドイツ軍がオランダを占領する。過去を研究してきた歴史家が、今度は自分の時代の政治的な支配の中で暮らすことになった。
1942年、大学を離れ、拘束される
ホイジンガは占領下で大学での立場を失い、1942年には人質として収容された。釈放後も行動は制限され、1945年に亡くなる。
学問を続ける場所そのものが占領によって変えられ、ホイジンガは大学で教えることも自由に移動することも制限された。ビザを発給する杉原とも、捕虜収容所で仲間を率いるストックデールとも異なる形で、国家の力が一人の仕事と生活に入り込んだ。
それでも、学問や言葉が政治と無関係に存在できない時代を考えるとき、ホイジンガの人生は重要な入口になる。
4人には、何を決める余地があったのか
① 杉原は書類を発給できた。ストックデールには、それができなかった
外交官の杉原には、ビザを発給する実務上の権限があった。その権限をどう使うかが、難民たちの旅に関わった。一方、捕虜となったストックデールには、自分の移動や生活を決める自由さえなかった。彼が取り組んだのは、厳しい監視の中で仲間とどう連絡し、どのように行動するかという問題だった。
同じ「自分で決める」という言葉でも、二人が実際に動かせたものは大きく違っていた。
② 内村の一礼と、ホイジンガの大学での仕事
内村が批判されたきっかけは、1891年の教育勅語奉読式での礼だった。本人の振る舞いは短い時間の出来事でも、その後に教職を離れる結果につながった。
ホイジンガの場合、ナチス占領が続くなかで、大学で教え、研究する条件が変わった。1942年には拘束され、釈放後も移動を制限された。一度の儀式をめぐる内村の事件に対し、ホイジンガは占領が続くあいだ、仕事と生活そのものを制約された。
③ その後の人生も同じではない
杉原は戦後を生き、発給したビザが後に広く知られるようになった。ストックデールは1973年に帰還し、捕虜生活とエピクテトスの教えについて語った。内村は教育の仕事を離れた後も執筆と講義を続け、戦争に対する考えも変化した。ホイジンガは占領の終結を見ることなく1945年に亡くなった。
四人が置かれた立場、行動できた範囲、その後の生活までを並べると、組織と個人の関係は、一つの型では説明できないことが分かる。
どこから読めばよいか
外交と人命をめぐる判断なら杉原千畝。極度に自由を制限された環境ならストックデール。信仰と学校・国家の関係なら内村鑑三。占領下で学問を続けた人の人生ならホイジンガが入口になる。
組織との関係を比べたいなら、内村→杉原→ホイジンガ→ストックデールと読むのもよい。日常の儀式、外交実務、占領下の大学、捕虜生活へ進むと、同じ「自分の判断」という言葉が、状況によってどれほど違う意味を持つかが分かる。
自分にできることとできないことを区別する思想については、別のテーマ記事「努力すれば人生は変えられる」は、どこまで本当なのか?でも取り上げている。



