一人の人生を読む
数学を止められても、自分で始めた
ブレーズ・パスカルは1623年、フランス中部のクレルモンに生まれた。母を幼くして亡くし、父エティエンヌから家庭教育を受ける。父は息子に数学を早く教えすぎない方針だったが、パスカルは自分で幾何学を考え始めたと伝えられる。
十代になると、当時の数学者や自然哲学者が集まるマラン・メルセンヌの研究交流圏に加わる。16歳で円錐曲線についての成果を示した。早熟さだけでなく、抽象的な問題を具体的な仕組みに落とす力が、のちの仕事にも続いていく。
父の仕事から、計算機をつくる
1639年、父はルーアンで徴税行政を担うことになった。税の計算は大量で、しかも当時の貨幣単位は十進法だけでは処理できない。パスカルは1642年ごろから、その作業を機械に任せる装置を考え始めた。
歯車を回して数を入力し、桁上がりを機械的に処理する。現在から見れば単純な計算機だが、「人が頭でしていた処理を機械の機構へ移す」という発想は大きかった。実用品として安価に普及したわけではない。それでも、数学を紙の上の理論だけでなく、装置へ変換する仕事だった。
真空は、本当に存在するのか
パスカルは流体と真空の問題にも取り組んだ。当時、「自然は真空を嫌う」という説明は強い影響力を持っていた。パスカルは水銀柱の高さが何によって決まるのかを実験で検討する。
1648年、標高が上がれば大気圧が下がり、水銀柱も低くなるはずだという検証のため、義兄フロラン・ペリエにピュイ・ド・ドームで測定を行うよう依頼した。現地で山を登り測定したのはペリエであり、パスカル本人ではない。結果は、気圧が高度によって変わることを支持した。
ここにはパスカルの特徴がある。大きな哲学的問題を、測定可能な差へ変える。説明を言葉だけで競わせず、どの結果が出るかを問いにする。
偶然を、数字で考える
1654年、パスカルはピエール・ド・フェルマーと書簡を交わした。きっかけの一つは賭けの問題だった。ゲームを途中で中止したとき、掛け金をどう分ければ公平なのか。まだ起きていない出来事の可能性を、どのように数量化すればよいのか。
二人の議論は、後に確率論と呼ばれる分野の基礎形成につながった。重要なのは、パスカルが「未来は不確実だから計算できない」と諦めなかったことだ。不確実さそのものに構造を見つけ、比較できる量へ変えようとした。
1654年11月23日、短い文書を残す
同じ1654年、パスカルの人生には別の転換が起こった。
11月23日の夜、彼は非常に強い宗教的体験をした。その後、その経験の内容を短い文書に書き留めた。後に「メモリアル」と呼ばれる文書である。パスカルはそれを衣服の内側に縫い込み、死ぬまで携帯していたことが知られている。
どの部屋で何を見たのか、書きながらどんな表情をしていたのかを再現することはできない。確認できるのは、経験を一枚の記録にし、それを人に見せる著作ではなく、自分の身体の近くに置き続けたという行為である。
数学者が突然、理性を捨てたという話でもない。むしろパスカルは、理性が強力だからこそ、その力が届く範囲と届かない範囲の両方を考えるようになる。
『パンセ』は完成した本ではない
晩年のパスカルは、宗教を擁護する大きな著作を構想していた。しかし39歳で死去し、その本を完成させることはなかった。残された紙片や断章が死後に編集され、『パンセ』として刊行される。
そこでは、人間は理性を持つ偉大な存在であると同時に、病気や偶然や死に左右される弱い存在として描かれる。娯楽に気をそらし、自分の有限性から目を背ける人間の姿も論じられる。
有名な「賭け」の議論も、数学の公式をそのまま信仰へ移したものではない。確実な証明が得られない状況で、人はそれでも生き方を選ばなければならない。その問題を、確率を考えてきた人間の言葉で押し広げたものだった。
パスカルの仕事は、科学と宗教のどちらか一方を選んだ人生として見ると分かりにくい。測れるものは測り、計算できるものは計算する。そのうえで、そこからこぼれ落ちる人間の問題を無かったことにしない。二つを同じ人生の中で抱えたことに、彼の独特さがある。




