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偉人たちの名前は、誰がつけたのか?紫式部・芭蕉・北斎・真田幸村

紫式部の本名は分からず、芭蕉は暮らした庵の名を使い、北斎は何度も画号を変えた。真田信繁の「幸村」は死後に広まった。名前が生まれ、後世まで残るまでの違いを4人の人生からたどる。

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「真田幸村」という名前を知っていても、本人が生きていたときにその名を使っていたわけではないと聞くと、少し不思議に感じるだろう。

大坂の陣で戦った武将が実際に書いた手紙などには、真田信繁という名が残っている。それでも、江戸時代に刊行された戦いの物語では「幸村」の名で登場し、後世にはその方が広く知られるようになった。

紫式部、松尾芭蕉、葛飾北斎も、私たちがよく知っている名前がそのまま戸籍上の本名だったわけではない。そもそも、今のような戸籍の名前が何世紀も前から同じ仕組みで使われていたわけではない。

どうして人は、本名ではない名前で何百年も記憶されるのだろう。

宮廷で呼ばれた名、自分で選んだ名、住まいから生まれた名、死後の物語が広めた名。それぞれの違いを、4人の人生からたどる。

4人の名前には、こんな違いがある

  • 紫式部:平安時代の作家。本名は分かっていない。宮廷での呼び名に、『源氏物語』と結びついた「紫」という名が重なったと考えられている。
  • 松尾芭蕉:江戸時代の俳諧師。宗房、桃青などの名を用い、深川の住まいに植えられた芭蕉の木が、広く知られる名に結びついた。
  • 葛飾北斎:江戸時代の絵師。春朗、宗理、北斎、為一など、仕事や時期によって名を変えた。
  • 真田幸村(信繁):戦国末期の武将。本人の書状で確認できる名は信繁。死後の軍記物語によって「幸村」の名が広まった。

名前が変わった理由は、四人とも同じではない。まずは約千年前の宮廷から見ていこう。

紫式部――本名が分からない作家の呼び名

宮廷では、親の家や役職にちなむ名が使われた

紫式部は、平安時代の11世紀初めに宮廷で暮らした作家である。『源氏物語』を書き、宮中の出来事を『紫式部日記』にも残した。

父は藤原為時。彼女自身の本名は、現在まで確実には分かっていない。「香子」という説もあるが、確定した名前ではない。

当時、宮廷に仕える女性たちは、現代のように本名を名札につけて呼び合っていたわけではなかった。父や兄弟の官職、家の名にちなんだ呼び名が使われた。宮廷に仕える女性を女房(にょうぼう)といい、彼女たちの間にはそうした呼称の習慣があった。

紫式部も「藤式部」と呼ばれたとされる。「藤」は藤原氏、「式部」は父が務めた役職に由来する。

「若紫」はどこにいるのか

1008年ごろの宮廷の宴を記した『紫式部日記』には、藤原公任が彼女の近くで「若紫はおられるか」と尋ねたという話が残る。「若紫」は『源氏物語』に登場する女性に関わる呼び名だ。

この逸話から、物語の作者であることと「紫」という名が結びついていったと考えられている。ただし、誰がいつ初めて彼女を「紫式部」と呼び始めたかを、一人に決められる記録があるわけではない。

宮廷での呼び名と、読まれた作品の名前が重なる。それが、千年後まで残る作家の名になった。

書いた本人だけでなく、読んだ人が名前を残した

『源氏物語』は、光源氏とその周囲の人びとの恋愛や政治、家族の生活を描く長い物語である。書かれた後も写本が作られ、読まれ続けた。『紫式部日記』にも、宮廷の人びととのやりとりが残る。

本名が分からない作家でも、作品が読まれ続ければ、その人を呼ぶ名が伝わっていく。紫式部の場合には、何を書いた人として記憶されたかが、名前そのものと深く結びついている。

松尾芭蕉――住まいの木が、人の名前になった

最初から「芭蕉」と名乗っていたわけではない

松尾芭蕉は1644年、伊賀国上野、現在の三重県伊賀市で生まれた。若いころは宗房(むねふさ)と名乗り、武家に仕えながら俳諧を学んだ。

俳諧とは、もともと複数の人が句をつなげたり、短い句を詠んだりして楽しむ文芸である。現在の俳句へつながる活動だ。当時は作者が俳諧の場で使う俳号(はいごう)を持つことも珍しくなかった。

芭蕉は江戸に出てから桃青(とうせい)という号で活動し、句をつくる仲間や弟子たちと交流した。作品をつくることに加え、人の句を評し、指導する仕事も担うようになる。

1680年、深川の庵に植えられた芭蕉

1680年、芭蕉は江戸の深川へ移り、隅田川に近い庵で暮らし始めた。弟子が植えた芭蕉の株が育ち、その住まいは芭蕉庵と呼ばれるようになった。

芭蕉はバショウという植物の名で、見た目はバナナに似た大きな葉を持つ。実を食べるためというより、葉や姿が楽しまれる植物だった。

住まいの名が本人の号となり、「芭蕉」の名前が広がっていく。作家が自分の机の上だけで決めた名前というより、弟子との関係と暮らしていた場所から生まれた呼び名だった。

旅をした後にも、名前が本とともに広まった

1689年、芭蕉は弟子の曾良と東北・北陸を旅した。後に『おくのほそ道』として知られる紀行文のもととなった旅である。

実際の旅は数か月で終わったが、その後の文章は何年もかけて整えられた。芭蕉が亡くなった1694年には、まだ『おくのほそ道』の刊行を見ていなかった。

深川の庵に植えられた植物に由来する名前が、旅の文章や弟子たちの仕事を通して、今も多くの人に知られている。

葛飾北斎――仕事とともに、何度も名を変えた

役者絵を描いていたころは「春朗」

葛飾北斎は1760年、江戸に生まれた。若くして浮世絵師の勝川春章に入門し、1778年ごろから春朗(しゅんろう)と名乗った。師匠の名の一部を受け継いだ号で、歌舞伎役者を描く仕事をしていた。

その後、勝川派を離れ、1794年ごろから宗理(そうり)を名乗る。これは別の絵画の流れと結びついた名前だった。

1798年ごろには、今日最も知られる北斎の名を用い始めた。次々に新しい仕事をする中で、絵師として人に知られる名前も変わっていったのである。

『冨嶽三十六景』のころは「為一」

北斎の代表作として知られる『冨嶽三十六景』は、七十代になってからの仕事である。『神奈川沖浪裏』の大波と小さな富士山を、見たことのある人は多いだろう。

ところが、そのころ北斎は為一(いいつ)という号を用いていた。「北斎」は彼が生涯ずっと使い続けた唯一の名ではない。

さらに晩年には画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)などの号も使った。変わったのは名前だけではない。役者絵、狂歌の本、読本の挿絵、絵手本、風景版画、肉筆画と仕事も広がった。

同じ時代の絵を探していると、「春朗」と書かれた絵も、「宗理」と書かれた絵も、「北斎」と書かれた絵も見つかる。それらは、別々の作家ではなく、一人の絵師が生涯にわたって残した仕事である。

自分で選ぶ名前も、作品を買う人によって広まる

北斎の絵は、一人の筆だけでは全国に届かない。出版を企画する版元、版木を彫る彫師、色を刷り重ねる摺師がいた。何枚もの作品が売られ、人びとは絵とともに作者の号を知った。

本人が号を変えることと、作品を通じてある号が広く知られることは別の出来事だった。現在「北斎」の名で一生分の作品をまとめて見られるのは、後世の人びとが異なる号を同じ絵師の仕事として整理してきたからでもある。

真田信繁――死後の物語が「幸村」を有名にした

大坂の陣で戦ったときの名前

真田信繁は、1560年代後半に生まれたとされる武将で、父は真田昌幸。1600年の関ヶ原の戦いでは父とともに徳川家康に敵対する側につき、兄の信之は徳川方についた。

父と信繁は敗れた後、紀伊国の九度山で暮らすことになる。1614年、豊臣秀頼から招かれた信繁は大坂城へ入り、翌1615年の夏の陣で戦死した。

現在の私たちは「真田幸村」と呼び慣れている。しかし本人の書状など、当時の確かな史料で確認できる名は信繁である。

1672年ごろ、『難波戦記』に登場する「幸村」

信繁が亡くなってから半世紀余り後、江戸時代の軍記物語『難波戦記』が成立した。戦の出来事を物語として書いた本で、信繁はそこで「幸村」という名で登場する。

その後も『真田三代記』などの物語や講談、錦絵によって名が広まり、「幸村」は勇ましい戦国武将として多くの読者に知られるようになった。江戸時代の真田家の記録にさえ、幸村と信繁の名が混同されるようになったという。

誰が最初に「幸村」の名を考え、なぜその字を選んだのかは分かっていない。少なくとも、今残る本人の署名から「幸村」と名乗っていたことを確かめられるわけではない。

本人の名と、物語の主人公の名

大坂の陣で戦った信繁は実在した。その活躍を物語の中でさらに印象的に伝えた「幸村」も、長い歴史の中で定着した名前になった。

「信繁」と「幸村」のどちらを使うかで、見ようとしているものが少し違う。本人の手紙や行動を調べるなら「信繁」。江戸時代にどのような英雄として語られ、読まれてきたかを知りたいなら「幸村」という名にも意味がある。

名前は本人だけで決まらず、後からも変わる

① 宮廷や仲間が呼んだ名

紫式部の名には宮廷の呼称と作品が関わっていた。芭蕉には俳諧の仲間や弟子たちと暮らす庵があった。自分一人で名前を考えたというより、人との関係の中から知られるようになった名だった。

② 自分で選び直した名

北斎は春朗、宗理、北斎、為一など、絵師として使う名前を変えてきた。近代には、俳人の正岡常規が、血を吐くまで鳴くと伝えられたホトトギスにちなみ「子規」という号を選んだ例もある。

絵を描く人、句を詠む人にとって、名前は作品に添える印でもあり、活動する仲間の中で使う名でもあった。

③ 本人が死んだ後に広まった名

信繁が「幸村」として広く知られるようになったのは、死後の軍記物語が大きな役割を果たしたからだった。

四人の名が今まで残ったのは、名づけた瞬間だけの出来事ではない。物語が読まれ、俳諧が伝えられ、版画が売られ、歴史の本が書かれてきた。その長い時間の中で、一つの名がほかの名より広く知られるようになった。

どの人から読むと面白いか

『源氏物語』の作者の本名が気になるなら紫式部。俳句と住まいの名前の関係なら芭蕉。絵師が名前を変える意味なら葛飾北斎。真田幸村と真田信繁の違いなら信繁の生涯から始めるとよい。

同じ「偉人の名前」でも、宮廷の習慣、弟子との交流、作品の出版、死後の物語という四つの道があった。名前の由来を知ると、その名が知られるようになった時代と、人びとの関係まで見えてくる。

02 / People

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