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ことばと身体 / 表現 / 教育の歴史

声を届け、学び、表現するために竹内敏晴・レーナ・マリア・中村正直

声と身体の関係を考えた竹内敏晴、競泳から歌と絵へ活動を広げたレーナ・マリア、目や耳に障害のある子どもたちの学校づくりに関わった中村正直。表現と学びを支える方法の違いを比べる。

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人前で話すとき、声がうまく出なくなることがある。聞こえにくい場所で、相手の言葉をつかむのが難しいこともある。話すことや書くことは毎日の当たり前の動作のように見えるが、誰もが同じ方法で身につけてきたわけではない。

足を使って絵を描く人、声と身体の関係を演劇で教える人。学校や教材を整えることで、学べる人を増やそうとする仕事もある。

人が声を届け、何かを学び、表現するためには、どんな方法や場所が必要なのだろう。

演出家・教育者の竹内敏晴、スウェーデンの歌手レーナ・マリア・ベンデリウス、明治の教育者・中村正直。3人は同じ時代でも同じ職業でもない。それぞれが実際に行ったことを見ると、身体の使い方、表現する仕事、学校をつくる仕事の違いが分かる。

3人は、どんなことに取り組んだのか

  • 竹内敏晴(1925–2009):幼少期の難聴を経験し、演劇の世界へ進んだ。声やことばが人へ届くときの身体の働きを、演劇の訓練や教育で考えた。
  • レーナ・マリア・ベンデリウス(1968–):両腕がない状態で生まれ、競泳の国際大会に出場した。のちに歌手、画家、講師として活動し、日本でも公演や出版を行った。
  • 中村正直(1832–1891):幕末から明治にかけて翻訳と教育に携わった。1875年には仲間と楽善会を組織し、視覚や聴覚に障害のある子どもたちが学べる学校づくりに関わった。

一人は声と身体の関係を教え、一人は表現する活動を広げ、一人は学ぶ機会のない人へ場所をつくる仕事をした。

竹内敏晴――話すことを、身体から考えた

幼いころ、声を聞き取りにくかった

竹内敏晴は1925年、東京で生まれた。生後まもなく中耳炎を患い、難聴となった。周囲の人が話す言葉を聞き、まねをしながら覚えるという過程を、竹内は同じようには経験できなかった。

1951年に東京大学を卒業すると、演出家の岡倉士朗と出会い、劇団ぶどうの会で演劇の仕事を始める。

舞台の台詞は、文字を読めればそれで終わりというものではない。言葉の意味が分かっていても、観客に伝わらなかったり、共演者へ話しかけている感じが出なかったりする。俳優は呼吸や姿勢を使い、相手の反応に応じて言葉を届ける。

竹内自身がことばを身につけるために向き合った問題は、演劇で他者へ声を届ける仕事と結びついていった。

1969年、声の出し方が変わる経験をした

1969年、竹内は発声練習中に、自分の声と身体の関係が大きく変わる経験をした。後に「ことばが劈かれる」と表現した出来事である。「劈かれる」は「ひらかれる」と読む。

1972年には竹内演劇研究所を開き、1975年には『ことばが劈かれるとき』を刊行する。竹内が取り組んだレッスンは、きれいな発音を競う練習ではなかった。相手のいる場所へ身体を向け、声を出し、受け取る人との関係に気づくための実践だった。

1979年から宮城教育大学で教え、やがて教育や人と関わる仕事にもその方法を広げた。演劇の稽古場で考えたことが、教師や学生が人へ話しかける場面にもつながっていった。

レーナ・マリア――競泳選手から、歌手と画家へ

1988年、スウェーデンの選手としてソウルへ

レーナ・マリア・ベンデリウスは1968年、スウェーデンに生まれた。日本では「レーナ・マリア」の名前で長く親しまれてきた。

生まれつき両腕がなく、脚の長さにも左右差がある。幼いころから足や口を使って日常の動作を覚え、水泳には3歳から取り組んだ。1988年にはソウル・パラリンピックにスウェーデン代表として出場した。

競泳で国際舞台を経験したレーナ・マリアは、やがて歌手として活動を広げる。ストックホルムの王立音楽大学で学び、歌を届ける仕事へ進んでいった。

1998年、日本では歌手として舞台に立った

1998年、長野パラリンピックの開会式でレーナ・マリアは歌を披露した。10年前のソウルでは競技者として会場にいた人が、長野では歌手として舞台に立ったのである。

同じ年、日本では自伝『レーナ・マリア――フット・ノート 足で書かれた物語』が出版され、翌年には学習まんがの主人公にもなった。日本の読者や観客は、水泳選手としてだけでなく歌手・表現者としての姿にも触れることになった。

彼女は絵を描く仕事も続けた。足や口を使って作品をつくり、海外で公演し、本を書き、講演も行った。2020年には新型コロナウイルス感染症の影響で海外ツアーが中止になり、オンラインの歌唱講座を開発した。学ぶ人へ声を届ける方法を、会場での公演から別の形へ変えていった。

表現する方法も、支援の受け方も一つではない

レーナ・マリアは、年齢を重ねてから生活の一部で人の助けを使うようになったことも語っている。歌や絵でさまざまな方法を身につけることと、必要なときに支援を受けることは、同じ人生の中にある。

彼女は歌うために声を使い、絵を描くために足や口を使い、仕事を続けるためにオンライン講座も使った。何を表現したいかによって、使う方法を選び直してきた人生である。

中村正直――学ぶための場所を、仲間とつくった

江戸時代には、幕府の学問所で教えていた

中村正直は1832年、江戸の武家に生まれた。幕府の昌平坂学問所で儒学を学び、教師となった。1866年には留学生を監督するためにイギリスへ渡る。

帰国するころには幕府がなくなっていた。中村は静岡で教えながら、イギリスの著述家の本を『西国立志編』として翻訳した。1872年にはミルの『自由論』を『自由之理』として紹介する。外国語で書かれていた考えを日本語にして、多くの人が読めるようにした。

本を訳す仕事と並んで、中村は私塾や女子教育にも取り組んだ。しかし学校へ通う機会そのものが限られていた人たちもいた。

1875年、六人が学校づくりを始める

1875年5月22日、中村は津田仙ら五人とともに「楽善会」という団体をつくった。目の見えない人たちが学べる場を設けるための取り組みだった。

団体をつくっても、すぐに授業が始まったわけではない。1879年に東京・築地に建物ができ、1880年に訓盲院で子どもたちの教育が始まった。後には耳の聞こえない子どもたちの教育も行うようになった。

訓盲院とは、当時の視覚障害のある子どもたちのための学校の名称である。今の日本では盲学校や聾学校の歴史につながる取り組みとして知られているが、使われる教材や教育の制度は時代によって変わっている。

中村一人で学校を開いたのではない。発起人や教員、支援者が力を合わせ、建物と教育の仕組みを整えていった。学ぼうとする人がいても、教える人や場所がなければ授業は始められない。 中村たちが取り組んだのは、その条件を整える仕事だった。

3人の仕事には、違う入口がある

① 声を出す人と、その声を受け取る人

竹内は、相手に向かって声を出す身体の動きを演劇やレッスンで考えた。レーナ・マリアは歌手として観客へ声を届け、コンサートができなくなるとオンライン講座を始めた。どちらにも、声を出す側と受け取る側の関係がある。

竹内の場合は話しかけること自体を学ぶ場があり、レーナ・マリアの場合は舞台や講座という表現の場があった。

② 自分の方法を身につけることと、学ぶ場所を整えること

竹内は自分自身の経験をもとに演劇の方法を育て、レーナ・マリアは競泳、歌、絵画と活動ごとに身体の使い方を選んだ。中村が関わったのは、学校へ通う条件が整っていなかった子どもたちのために教育の場をつくる仕事だった。

一人の技術や工夫と、誰もが学べるように学校や教材を用意する仕事には、それぞれ別の役割がある。

③ 表現の場は、時代とともに変わってきた

中村の時代には、視覚や聴覚に障害のある子どもたちの教育の仕組みそのものを整える必要があった。竹内は演劇の稽古場から学校へ方法を広げた。レーナ・マリアは日本での舞台や本を通して知られ、後にはインターネットで歌を教えた。

同じ「伝える」という仕事でも、誰へ届けるのか、どんな道具や場所があるのかによって、できることが変わってきた。

最初に読む人物を選ぶなら

声やことばが人へ届く仕組みに関心があれば竹内敏晴。歌・競泳・絵画を通じた表現ならレーナ・マリア。明治日本の学校づくりと教育機会なら中村正直から読むとよい。

竹内からレーナ・マリアへ進むと、身体を使って声や表現を届ける二つの人生が見える。続いて中村を読むと、個人が表現する方法だけでなく、その方法を学べる場所を社会がどうつくってきたかまで視野が広がる。

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