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戦国時代 / 天下統一 / 織田・豊臣・徳川

信長・秀吉・家康は、何を変えたのか?城・土地・政治のしくみから比べる

安土の商人を集めた信長、田畑と人を調べた秀吉、大名を従わせる仕組みを整えた家康。戦国の三英傑が、合戦の後に人びとの暮らしをどう変えたかを比べる。

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戦国時代の三人といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。学校で名前を覚えた人も、大河ドラマで見たことがある人も多いだろう。

信長は大胆に戦い、秀吉は天下を統一し、家康は長く続く江戸幕府を開いた。そんな説明を聞いても、ひとつ疑問が残る。この三人が現れる前と後で、普通の人の暮らしは何が変わったのだろう。

1577年、信長は安土城の下の町に十三か条の掟を出した。1580年代、秀吉の政権は田畑を測り、耕す人を帳簿に記し始めた。1615年、家康が実権を握る徳川政権では、全国の大名が守る決まりが公布された。

商売する町、米をつくる田畑、大名が治める国。三人が変えようとした場所は、合戦の場だけではなかった。

まず、三人の違いをつかむ

  • 織田信長(1534〜1582):尾張から勢力を広げ、京都の政治にも関わった。安土城を築き、商人や旅人を城下へ呼び込む掟を出した。
  • 豊臣秀吉(1537年ごろ〜1598):信長の家臣から天下人となった。全国の大名を従わせ、土地を測る検地と刀狩などを進めた。
  • 徳川家康(1542〜1616):信長とも秀吉とも関わりながら生き残り、江戸に幕府を開いた。将軍の地位を息子に譲った後も政治を動かし、大名を治める規則を整えた。

三人が生きた時代は大きく重なっている。信長が戦っていたとき、秀吉はその家臣であり、家康は同盟相手だった。信長が亡くなると、秀吉が権力を握り、やがて家康がその後を継ぐ。三人が最初から順番を決めて国づくりを進めたわけではない。争い、協力し、立場を変えながら、一つ前の時代に生まれた仕組みを利用することもあった。

信長――戦いに勝った後、町へ商人を集めた

将軍を連れて京都へ入り、やがて追放した

織田信長は1534年、尾張の武将の家に生まれた。1560年には桶狭間の戦いで今川義元を破り、名を広める。1568年には足利義昭を奉じて京都へ入った。義昭は室町幕府の将軍となったが、信長との関係は悪化し、1573年には京都から追われる。

当時、京都で政治を行うには、将軍や朝廷の権威も大きな意味を持っていた。信長は兵を率いて都へ入りながら、初めからすべてを自分の名前だけで命じることができたわけではない。

同じころ信長は、家臣を各地へ送り、城や町に自分の命令が届く範囲を広げていった。武力はそのための手段だったが、戦いだけで支配が続くわけではなかった。

1577年、安土の十三か条

1576年ごろから信長は近江の安土に城を築いた。翌1577年6月、城のふもとの町へ十三か条の掟を出す。

第一条では、町を楽市とした。これは商売をする際、従来の商人組織である「座」の特権に縛られにくくする仕組みである。町の住人には、さまざまな負担を免除する決まりもあった。第二条では、中山道を往来する商人に安土へ立ち寄るよう求めている。

遠くから商品を運ぶ商人にとって、どこで店を出せるか、どこで休み、荷物を扱えるかは重要だった。信長が示したのは「自由に商売してよい」という言葉だけではない。どの道を通る人を町へ集め、町の人に何を免除し、どんな商売を認めるかという、細かな規則だった。

商売が自由になる部分と、信長の命令に従わなければならない部分は同時に存在していた。町をにぎやかにすることは、城の力を支えることでもあった。

商業を広げた同じ人が、戦争を続けた

信長は1575年、徳川家康とともに長篠で武田勝頼に勝利した。一方、比叡山延暦寺への攻撃や、毛利方の鳥取城を包囲して食糧を絶つ戦いなど、多くの死者を出した戦争も進めた。

新しい町の仕組みをつくる信長と、敵を追いつめて領土を広げる信長は、同じ人物である。

1582年6月、信長は本能寺で明智光秀に襲われ、亡くなる。安土で出した掟は残ったが、信長が次にどんな制度をつくるつもりだったのかを、その先まで確かめることはできない。

秀吉――人と土地を調べ、全国を治めようとした

城を攻めていた家臣が、天下人になる

1582年に信長が亡くなったとき、豊臣秀吉は中国地方で毛利方の備中高松城を包囲していた。まだ羽柴秀吉と名乗り、信長の家臣だった。

知らせを受けた秀吉は毛利方と講和し、軍を京都方面へ引き返す。山崎の戦いで明智光秀を破り、織田家の家臣たちの間で主導権を強めた。

1583年には大坂城を築き始める。1585年には朝廷の官職である関白となり、翌年には「豊臣」の姓を賜った。1590年には小田原の北条氏を降し、東北の大名を含む全国の有力者を従える。

信長の下で戦う家臣だった秀吉は、次第に各地の大名へ、どんな決まりで国を治めるのかを命じる立場になった。

田畑を測り、村の帳簿をつくる

秀吉の政権は、役人を各地へ送って田畑や屋敷地の広さ、土地の良し悪しを調べさせた。後に太閤検地と呼ばれる一連の調査である。

たとえば村に田が何枚あり、誰が耕しているかを一筆ずつ調べる。土地の生産力を米の量に換算した「石高」で示し、それを年貢や大名の軍役の基準にする。農民にとっては、耕す場所と納める米の責任が帳簿で明確になることだった。

土地を測る仕事は秀吉が一人で発明したわけではなく、それ以前の大名にも土地の調査はあった。秀吉の政権では、その仕組みを広い地域にわたって進め、全国の統治に使おうとした。

数字にされた田畑は、城や戦場から離れた村にも政治の命令が届く手がかりになった。

1588年、誰が刀を持つのか

秀吉は1588年に刀狩の命令を出す。農民から武器を集め、武士と農民の役割を分ける方向を進めた。1591年には、人々の身分や移動を把握しようとする命令も出した。

当時は、農業をしながら戦場で武器を取る人もいた。武器の所持や移動を制限することは、田畑を耕す人をその土地にとどめ、戦う役割を武士に集めることにつながる。実際の進み方は地域によって異なったが、秀吉の政権が目指した秩序は明確だった。

土地を測る。年貢を決める。誰が武器を持つかを定める。この三つは、ばらばらの政策ではない。村が米をつくり、大名が兵を率い、政権がその両方を把握する仕組みだった。

国内を治めた後、国外へ軍を送った

1592年、秀吉は朝鮮へ軍を侵攻させた。日本の大名たちを動員して明への進出を目指した戦争は、朝鮮の人びとに大きな被害をもたらした。1597年にも再び大規模な侵攻が行われる。

国内で多くの大名を従え、田畑や軍役を把握する力は、国外へ兵や物資を送り出すためにも使われた。

1598年、秀吉は亡くなる。幼い後継者の秀頼を支えるための仕組みを残そうとしたが、有力大名の間の対立は収まらなかった。

家康――天下人が亡くなっても続く政治をつくった

信長の同盟相手から、秀吉に従う大名へ

徳川家康は1542年に三河で生まれ、幼いころ他家のもとで暮らした。今川家に属していたが、1560年に今川義元が信長に敗れると故郷の岡崎へ戻り、やがて信長と同盟する。

1572年の三方原では武田信玄に大敗し、1584年には羽柴秀吉と小牧・長久手で対立した。戦いを経験した後、家康は秀吉の政権に従う道を選んだ。

秀吉が全国の大名を従わせた後も、家康は大きな領地を持ち、多くの家臣を率いていた。1590年には関東に移り、江戸を拠点とする。

将軍になり、息子へ職を譲る

秀吉が亡くなった後、政権をめぐる争いは1600年の関ヶ原の戦いへと進んだ。家康は勝利して政治の主導権を強め、1603年、征夷大将軍となって江戸に幕府を開く。

将軍とは、武家政権の長として朝廷から任じられる地位である。家康は1605年、その職を息子の秀忠へ譲った。しかし自分は駿府などから重要な政治判断に関わり続ける。

ここには、秀吉の後をめぐる争いから家康が考えた政治の形が見える。一人が死んでも、その家が政治の中心であり続けられるようにする。将軍職の継承を早く示したことには、その意味もあった。

1615年、大名が守る決まりを示す

1615年、家康方の軍は大坂の陣で豊臣家を滅ぼした。同年、徳川政権は武家諸法度を公布する。全国の大名が守るべき基本的な規則で、以後の幕府の大名統制を支えることになった。

大名にはそれぞれ領地と家臣がある。しかし江戸幕府のもとでは、各地の大名も幕府が定める枠組みの中で行動しなければならない。城をどう扱うか、婚姻や家中の秩序をどう保つかなどが、次第に幕府の政治と結びついていった。

家康自身は翌1616年に亡くなる。武家諸法度は後の将軍の時代にも改められ、江戸時代を通じて大名を治める基本的な決まりとなった。後に知られる参勤交代の制度なども、家康の死後に整えられていく。江戸時代の仕組みすべてを家康一人が完成させたわけではない。

三人は、何を変えたのか

商人にとって――どこで売るか

信長が安土に出した掟では、商人を呼び込むために商売の特権や町の負担を改めた。城の周囲に人と物が集まれば、支配者の力も増す。町をつくる政策が、軍事や政治と結びついていた。

農民にとって――何を納め、どこで暮らすか

秀吉の検地や刀狩は、土地を耕す人の役割と負担を制度の中へ書き込んだ。年貢は以前から存在したが、誰がどの土地を耕し、その土地の生産力をどう数えるかが広い地域で整理されていった。

大名にとって――誰の決まりに従うか

家康の時代には、全国の大名が同じ武家政権のもとに置かれた。幕府は、大名が独立して争い続ける状況を抑え、将軍家の権力を次の世代へつなげようとした。

三人はそれぞれ独自の仕組みをゼロから作ったわけではない。戦国大名が以前から行っていた町の管理や土地調査も引き継ぎ、別の規模へ広げた。信長は城と町、秀吉は土地と人、家康は大名と将軍家の関係に、それぞれ特徴的な足跡を残した。

三人の人生を、どこから読むか

安土城や楽市楽座に関心があるなら信長。太閤検地・刀狩・天下統一を知りたいなら秀吉。江戸幕府が長く続いた理由に関心があるなら家康から読むとよい。

信長の安土から秀吉の大坂、家康の江戸へ。城の場所も、支配する範囲も、命令の届き方も変わっていく。合戦の勝者だけを追うのではなく、町で商いをする人、田を耕す人、地方を治める大名の立場から三人を読み比べると、戦国の終わり方がずっと具体的になる。

02 / People

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