有名な人の「名言」を見かけることがある。ソクラテスの言葉、ストア派の教え、道元の坐禅の話、宮本武蔵の兵法。短い言葉だけを読むと、その人が自分で書き残したもののように感じられる。
しかし、ソクラテスは自分の著作を残していない。エピクテトスも本を書かず、今ある文章は弟子が記録したものだ。それに対して、道元には自ら書いた文章が残り、武蔵は晩年に長年の兵法をまとめた。
同じ偉人の言葉でも、私たちの手元へ届くまでの道筋は違っている。
古代ギリシアのソクラテス、ローマ帝国時代のエピクテトス、鎌倉時代の道元、江戸時代初めの宮本武蔵。4人の人生と著作をたどり、どこから言葉が伝わっているのかを紹介する。
4人の言葉は、どう残ったのか
- ソクラテス:紀元前399年に亡くなった。本人の著作はなく、プラトンやクセノポンらの文章から人物像が伝わる。
- エピクテトス:1〜2世紀のストア派哲学者。弟子アリアノスが授業の話を記録し、『語録』や『要録』として伝わる。
- 道元:13世紀の僧。坐禅の実践を書いた『普勧坐禅儀』には自筆本が残り、『正法眼蔵』の各巻も長い年月をかけて伝えられた。
- 宮本武蔵:17世紀の剣術家。晩年に『五輪書』をまとめ、自身の勝負の経験と兵法を文章にした。後世には多くの伝記や小説も生まれた。
この4人は同じ思想を説いた人ではない。「どんな教えか」と同時に、誰が言葉を書き、誰が保存してきたのかに目を向けると、古典の読み方が変わる。
ソクラテス――本人の本がないのに、言葉が残った
紀元前399年、アテナイで裁かれる
ソクラテスは紀元前5世紀にアテナイで暮らした哲学者。市場や町で人びとと対話し、正義や勇気、善い生き方について質問を重ねたことで知られる。
紀元前399年、青年たちを悪く導き、町の神々を敬わないなどとして訴えられ、裁判で死刑判決を受けた。ところが、現在の私たちが読む『ソクラテスの弁明』は、ソクラテス本人が法廷で書いた原稿ではない。弟子プラトンが、その裁判を題材に後から書いた作品だ。
プラトンの『クリトン』には、脱獄を勧める友人との対話がある。『パイドン』には、死の直前まで魂について話し合う姿が描かれる。これらはソクラテスの最期を伝える重要な本だが、録音された会話をそのまま文字にしたものではない。
同じ人物を、違う著者が書いた
ソクラテスを残したのはプラトンだけではない。クセノポンは『ソクラテスの思い出』などを書き、喜劇作家アリストファネスは生前のソクラテスを『雲』という劇に登場させた。
プラトンの対話篇では、人びとへ次々に問いを投げかける哲学者が見える。クセノポンの文章では、人の生活や道徳について教える姿が強い。喜劇の『雲』に登場するのは、当時の観客を笑わせるために誇張された奇妙な知識人だ。
三つを読むと、同じ人物が別々の姿で現れる。本人の言葉だけを集めた本が存在しない以上、ソクラテスを知ることは、書いた人の違いを見比べることでもある。
エピクテトス――教室での会話を弟子が書き留めた
奴隷身分から、哲学を教える人へ
エピクテトスは1世紀半ばごろ、ローマ帝国の小アジアに生まれたとされる。若いころはローマで奴隷だったが、哲学者ムソニウス・ルフスに学ぶ機会を得た。のちに解放され、哲学を教える立場になる。
皇帝ドミティアヌスの時代に哲学者たちが追放されると、エピクテトスもローマを離れ、ギリシア西岸のニコポリスで学校を開いた。
彼が教えたのは、自分で決められることと決められないことを区別する考え方だった。かつて奴隷として暮らし、自由身分になってからも皇帝の政策で住む場所を変えざるを得なかった人の教えである。
病気の娘を置いて出てきた父親との問答
『語録』には、幼い娘が病気になると心配で家にいられず、外へ出てしまった父親の話が残る。父親は愛しているからこそ逃げたのだと説明する。
エピクテトスは、もし愛しているほど逃げるのが自然なら、母親も乳母もみな娘のそばを離れるべきなのか、と問い返した。相手の言葉を別の人にも当てはめてみることで、父親自身の考えを確かめさせたのである。
こうした教室での話を残したのは弟子のアリアノスだった。アリアノスは序文で、先生の話をできるだけ聞いたとおりに書き留めたと説明している。
『語録』はもともと少なくとも8巻あったと考えられるが、今残るのは4巻である。短い『要録』もアリアノスが教えをまとめたものだ。私たちが読むのは、先生の話と、それを後世へ届けようとした弟子の仕事が重なった文章である。
道元――八百年前に書いた文字そのものが残る
1223年、宋へ渡って坐禅を学ぶ
道元は1200年に生まれ、比叡山などで仏教を学んだ。1223年に宋、現在の中国へ渡り、禅寺での修行と共同生活を経験する。帰国後は坐禅の実践を説き、やがて越前に寺を開いた。後の永平寺である。
道元が重視したのは、坐禅をしてから悟りという結果を手に入れるという考えではなかった。坐って修行することと仏道を生きることを、別々の段階にしなかった。
帰国後に記した『普勧坐禅儀』は、坐禅の方法と意味を伝える文章だ。1233年に道元本人が書いた自筆本が、永平寺に伝えられている。
自筆本と、長く伝えられた著作
『普勧坐禅儀』には、後世の人がまとめた言葉だけでなく、道元自身が筆を動かした跡が残る。古い巻物を見れば、文字の形や行の並びも分かる。本人の手で書かれた資料が現存することは、ソクラテスやエピクテトスの場合との大きな違いだ。
一方、道元の大きな著作『正法眼蔵』は、最初から一冊の本としてまとめて書かれたものではない。「現成公案」「有時」など、異なる時期の文章が巻ごとに伝えられ、後世には複数の巻数構成が生まれた。
本人の書いたものがあるからといって、今日の本がすべて書き始めたときの順番で並んでいるわけではない。道元の文章は、弟子や寺によって保存され、読み継がれてきた。
宮本武蔵――勝負の経験を、晩年に本にした
「六十余度、勝ってきた」と書いた本人
宮本武蔵は1584年ごろ生まれた剣術家で、二刀を使う兵法で知られる。巌流島の決闘の話は広く伝わっているが、その細かな展開には後世の物語による部分がある。
武蔵は晩年、熊本の細川家と関わりながら暮らしていた。1643年には藩主の細川光尚から体調を気遣う手紙が届いている。同じ年の10月、武蔵は『五輪書』を書き始めたと序文に記した。
『五輪書』で武蔵は、若いころから六十回を超える勝負に勝ち、一度も負けなかったと述べる。これは武蔵自身が記した経歴である。その直後、勝ち続けた理由は兵法の道理を理解していたからなのか、自分の才能や相手の事情によるのかと考えたことも書いている。
自分の経験を、ほかの人が使える言葉にする
『五輪書』は地・水・火・風・空の五巻からなる。そこには刀の扱い方だけでなく、相手の動きを見ること、勝負の場に応じて判断することなどが記されている。
勝負をした本人にとって身体で身につけた技を、弟子が読み返せる文章にする。武蔵の著作には、自分が経験したことをどう人へ伝えるかという仕事がある。
一方、私たちに親しまれている武蔵の姿は『五輪書』だけから生まれたわけではない。養子の伊織が建てた碑、細川家の書状、後世の伝記、昭和の吉川英治の小説『宮本武蔵』も広く読まれた。
若いころの決闘と晩年の『五輪書』を知るときには、本人の文章と、のちの人が書いた物語の両方が手がかりになる。
本の「著者」が違えば、残る言葉も変わる
① 本を書かなかった二人
ソクラテスとエピクテトスは、自分の教えをまとめた著作を残していない。プラトンやアリアノスという書き手を通して二人を知る。ただし、プラトンは対話篇という作品を書き、アリアノスは教室の話を記録したと述べている。弟子が残したという共通点の中にも違いがある。
② 自分で文章を書いた二人
道元には1233年の『普勧坐禅儀』自筆本が伝わり、武蔵は『五輪書』の序文に書き始めた日を記した。本人が考えを言葉にしようとした姿を追える点で、前の二人と事情が違う。
道元の『正法眼蔵』も武蔵をめぐる伝記も、現在の読者に届くまでに人びとの保存や編集、書写が重なっている。
③ 短い名言より、どの場面の言葉か
ソクラテスの裁判、エピクテトスの教室、道元の寺での修行、武蔵が老年に書いた兵法書。言葉の生まれた場所が分かると、誰に向かって何を語っていたのかが分かる。
「自由」「修行」「勝つ」といった短い言葉も、その場で相手に説明していた内容を読むと、意味がいっそう具体的になる。
どこから読めばよいか
本人の本がない哲学者ならソクラテス。教室の声を弟子が伝えた例ならエピクテトス。日本に残る古い自筆の文章なら道元。剣術家が経験を本にした道筋なら宮本武蔵へ進むとよい。
最初にソクラテスとエピクテトスを比べ、次に道元と武蔵を読むと、書き手と語り手の関係がどのように違うのか、四つの人生からつかめる。



