教科書で、昔の人の顔を見たことがあるだろう。王妃の肖像画なら、着ている服や表情まで分かる。古い白黒写真には、百年ほど前の人物が写っている。小説を読めば、その時代の家や食べ物、家族の会話まで目に浮かぶ。
ところが、肖像画は写真と同じようにつくられたものではない。写真も、当時生きていた人全員を写したわけではない。実体験から書かれた小説には、作者が思い出を組み直した場面がある。
私たちは、過去に生きた人のどこまでを知ることができるのだろう。
フランス王妃マリー・アントワネット、イギリスの写真家ウォルター・ストーンマン、アメリカの作家ローラ・インガルス・ワイルダー、オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガ。4人に関わる作品や記録を比べると、昔の人物について知るための方法が見えてくる。
4人と、後世に残ったもの
- マリー・アントワネット:18世紀フランスの王妃。肖像画の中には、服装や家族の姿を通して王妃の印象を伝えようとした作品がある。
- ウォルター・ストーンマン:20世紀イギリスの写真家。政治家や学者などを撮り続け、国立肖像画美術館に大量の人物写真を残した。
- ローラ・インガルス・ワイルダー:19世紀アメリカの開拓地で育ち、老年になって幼少期をもとにした『大草原の小さな家』のシリーズを書いた。
- ヨハン・ホイジンガ:歴史家。絵画や文学、儀礼などを調べ、中世の人びとが世界をどう感じていたかを描いた。
王妃は肖像画に描かれる側、写真家は撮る側、作家は自分の経験を物語にする側、歴史家は過去の資料を調べる側だった。
マリー・アントワネット――王妃の肖像画は、何を伝えたのか
1783年、王妃の服装が問題になった
マリー・アントワネットは1755年にオーストリアの皇女として生まれ、1770年、14歳でフランス王家へ嫁いだ。1774年に夫がルイ16世として即位すると、フランス王妃となった。
18世紀の王妃には写真がない。現在、私たちが知っている顔の多くは画家が描いたものだ。宮廷で重んじられたのが、肖像画家エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの作品だった。
1783年、ヴィジェ=ルブランは王妃を薄い白い服で描いた肖像画を展覧会に出した。ところが、王妃には正式な身分にふさわしくない服装だとして批判が起こる。画家は同じ姿勢で王妃を絹のドレス姿に描き直し、別の肖像を展示した。
どちらも王妃の姿をもとに描いたものだ。しかし服装が違うだけで、見る人の反応が変わった。肖像画には、顔立ちと同時に「この人をどう見てほしいか」が描き込まれる。
1787年、子どもとともに描かれた王妃
1787年、ヴィジェ=ルブランは《マリー・アントワネットと子どもたち》を発表した。赤い服を着た王妃が子どもたちとともにいる大きな絵だ。女王としての地位だけでなく、母親としての姿も示している。
当時の王妃は浪費などについて批判を受け、1785年の首飾り事件でも、本人が詐欺に関与していなかったにもかかわらず悪評が広がった。1787年の絵には、その評判を立て直す狙いもあった。
王妃が実際に母親だったことも、絵に子どもたちがいることも事実だ。一方、その座り方、衣装、画面の構成は画家が選んだ。王妃の人生を知るには、肖像画とともに、手紙や宮廷の記録、革命期の資料なども使われる。
ストーンマン――写真を残し続ける仕組みをつくった
1917年、撮った写真を美術館へ残す
ウォルター・ストーンマンは1876年にイギリスで生まれ、若いころからロンドンの写真館で働いた。政治家、王族、学者、作家など、さまざまな人物がカメラの前に座った。
1917年、第一次世界大戦の最中、ストーンマンは英国国立肖像画美術館に「国立写真記録」の構想を提案した。時代を代表する人物を定期的に撮影し、写真を継続して保存する計画だった。
一人の政治家を撮って終わるのではなく、翌年にも別の政治家や学者を撮る。何十年も続けることで、写真のまとまりが生まれる。ストーンマンは約41年間におよそ7000人を撮影した。写真を収める美術館があったからこそ、長期間の記録が残った。
写真に写ったものと、写らなかったもの
当時の首相や作家の写真を見ると、髪形、服装、顔立ちが分かる。画家が筆で描いた肖像と違い、その時カメラの前にいた人物の姿が記録されている。
一方、撮影する相手を選んだのは写真家と美術館だった。記録には、当時の政治や文化の中心にいた人物が多い。工場で働く人や家事を担う人など、社会を支えたすべての人が同じ割合で写されたわけではなかった。
写真から顔を知ることはできても、その時代の人びと全員の暮らしが見えるわけではない。写真が大量に残るようになっても、誰にカメラが向けられたかという違いは残った。
ワイルダー――子ども時代の経験が、小説になる
開拓地を移り住んだ少女の記憶
ローラ・インガルス・ワイルダーは1867年、アメリカのウィスコンシン州で生まれた。家族はカンザス州やミネソタ州、サウスダコタ州などを移り住んだ。農作業、厳しい冬、学校、近所の人びととの交流が幼少期の生活だった。
15歳で教員となり、結婚してからも農場で働いた。家族とともに暮らした日々をまとまった物語にしたのは、そのずっと後のことだ。
1932年、65歳で『大きな森の小さな家』を出版した。続いて『大草原の小さな家』などを書き、少女ローラの目を通して開拓生活を描いた。日本でも翻訳やテレビドラマでよく知られている。
ローラの思い出を、母と娘で本にした
娘のローズ・ワイルダー・レーンは、すでに作家として働いていた。母が書いた文章の整理や編集に協力し、二人は何度も書き直した。
米国の国立公文書館などには、編集前の文章や書き直した文章が残る。また土地の記録や国勢調査、天候の記録を調べると、小説の出来事と照らし合わせられる。
『大草原の小さな家』には、ローラ自身が過ごした土地や家族の記憶がある。しかし会話の細部や出来事の順序まで、すべてそのまま記録された日記ではない。長い年月を経て、読者に届ける物語として組み立てた作品だった。
小説からは子どもの目に映った暮らしや家族の感情が生き生きと伝わる。一方、開拓地の歴史をさらに調べるには、当時その土地に住んでいた先住民側の記録も必要になる。
ホイジンガ――何百年も前の人の暮らしを調べる
1919年、『中世の秋』を書く
ヨハン・ホイジンガは1872年にオランダで生まれた。もともと東洋の言語を研究していたが、やがてヨーロッパの歴史学へ進んだ。
1919年に刊行した『中世の秋』は、主に14〜15世紀のフランスや現在のオランダ・ベルギーにあたる地域の文化を扱った本だ。王の即位や戦争の結果を年表にするだけでなく、祭り、衣服、宗教儀礼、死への恐れ、愛情の表現などに目を向けた。
中世の人びとは、祝い事でどんな儀礼を行い、死をどう描き、どんな色や言葉に意味を見いだしたのか。ホイジンガは絵画や文学、同時代の記述を使い、過去の人びとの感じ方を描き出そうとした。
本や絵に残った暮らしの手がかり
ホイジンガが生きたのは20世紀だ。中世の祭りを自分の目で見たわけではない。それでも、当時の人が残した絵や文章を比べれば、何を美しいと感じ、何を恐れ、どんな形で暮らしを表現したのかを考えられる。
一枚の絵を眺めるだけでなく、多くの資料を集めて関係を探すことが、歴史研究になった。
ホイジンガは1938年に『ホモ・ルーデンス』も刊行し、遊びや競技、儀礼が文化の中で果たす役割を考えた。人びとが何をしたかと同時に、その行為にどんな意味を与えていたかを知ろうとした歴史家である。
四つの記録を比べると、分かることが違う
① その場の姿を残すものと、時間をかけて描くもの
王妃の肖像画は画家の前にいた人物をもとに作られた。ストーンマンの写真も撮影時の姿を残した。ワイルダーの小説は数十年前の子ども時代を振り返って書かれ、ホイジンガは何百年も前の資料を集めて歴史を書いた。
誰が、いつ、何をもとに作ったかによって、作品から知ることのできる範囲が違う。
② 記録に登場する人と、記録を作る人
王妃の姿を構成したのは肖像画家で、写真を撮り続けたのはストーンマンだった。ワイルダーは自分の経験をもとに書き、娘ローズも本づくりに関わった。ホイジンガは昔の画家や著述家が残した資料を使って、時代全体の姿を描いた。
登場人物が誰なのかに加え、作った人の仕事を知ると、その資料の性格が分かる。
③ 一つの資料から、別の資料へ進める
マリー・アントワネットの絵から宮廷の記録へ、ストーンマンの写真から美術館の目録へ、ワイルダーの小説から家族の文書や土地の記録へ、ホイジンガの本から彼が参照した絵画や文学へ。過去を調べる道は一つの資料で終わらず、広がっていく。
どこから読めばよいか
王妃の肖像画と実際の評判ならマリー・アントワネット。昔の有名人の顔がどう保存されたかならストーンマン。実体験が小説になる過程ならワイルダー。絵や文学から昔の暮らしを読み取る研究ならホイジンガへ進むとよい。
一人の人物の顔から時代の暮らしへ、記録の種類を広げていく順に4人をたどると、それぞれの違いがつかみやすい。



