一人の人生を読む
50歳のジョブズが語った人生
2005年6月、スティーブ・ジョブズはスタンフォード大学の卒業式で、自分の人生を三つの物語に分けて話した。一つ目は養子として生まれ、大学を中退し、それでも興味のある授業へ通い続けたこと。二つ目は自分でつくったアップルから離れ、ネクストとピクサーを経て戻ったこと。三つ目はがんと死についてだった。
その中で最も有名になったのが、「点は前を見てつなぐことはできず、後から振り返って初めてつながる」という話である。この言葉はジョブズの人生をきれいに説明する。ただ、きれいに説明できるからこそ注意も必要だ。50歳の人間が、自分の過去を振り返り、一つの意味ある物語へ編集した言葉でもあるからである。
実際の人生には、本人以外の人がつくった点も大量にあった。
養子として育ち、大学を離れる
1955年2月24日、スティーブン・ポール・ジョブズはサンフランシスコに生まれ、生後まもなくポールとクララ・ジョブズ夫妻の養子となった。後年、本人は養子であることを自分の人生の一部として語っているが、その経験を成人後の性格の単一原因にする必要はない。
1972年、17歳でリード・カレッジへ進学する。約半年で正式な在籍をやめた後もしばらく大学周辺に残り、興味を持った授業へ出た。その一つがカリグラフィーだった。ジョブズは後年、この経験がマッキントッシュの文字設計へつながったと語っている。
リードでカリグラフィーへ触れたことも、マックが当時のパーソナルコンピュータとして文字表現へ強くこだわったことも確かである。ただ、その二つを結ぶ線は、50歳のジョブズ自身が後から引いた線でもあった。
21歳、ウォズニアックとアップルをつくる
若いジョブズにとって重要な人物がスティーブ・ウォズニアックだった。二人はアップル以前からブルーボックスなどを一緒に作り、技術と販売を組み合わせる経験をしている。1976年、ジョブズ、ウォズニアック、ロナルド・ウェインの三人でアップル・コンピュータを創業した。
アップルIを技術的に設計したのはウォズニアックである。ジョブズは、それを商品として売る可能性を見つけ、バイトショップから注文を取ってきた。この関係は、ジョブズの仕事を考えるうえで重要である。
彼を「天才的な発明家」と呼ぶと、実際に回路を設計した人や製品を作ったチームが見えなくなる。一方で、「自分では技術を作っていない」とだけ言えば、技術、人、デザイン、商売を一つの製品へまとめる役割が見えない。ジョブズは、一人でゼロから発明する人というより、複数の要素を一つの方向へ編集する人だった。
20代で会社が巨大になる
アップルIIは大きな商業的成功を収め、アップルは急速に成長した。20代のジョブズは、小さな会社の共同創業者から大企業の経営者の一人になる。そしてマッキントッシュの開発へ強く関わり、製品の方向、利用体験、外観、統合への要求に大きな影響を与えた。
ただし、マッキントッシュを作ったのは多数の技術者、デザイナー、プログラマーのチームである。1984年にマッキントッシュが発売されると、その翌1985年、30歳のジョブズはアップルで実権を失い、最終的に退社した。
後年のスタンフォード大学卒業式演説では「自分が始めた会社から解雇された」と非常に分かりやすく語っている。実際の経営過程はもう少し複雑で、ジョン・スカリーとの対立、取締役会の判断、マッキントッシュ部門での権限縮小などが重なっていた。本人にとっては「追い出された」経験だったとしても、企業史として一つの性格や争いだけで説明することはできない。
30歳、会社を失って別の会社をつくる
アップルを離れたジョブズはネクストを設立した。ネクストのコンピュータは高く評価された部分がある一方、ハードウェア事業として大成功したわけではない。1995年のスミソニアンのオーラルヒストリーで、ジョブズ自身もアップルと同じようにハードウェアとソフトウェアを一体で作ろうとした判断には誤りがあったと振り返っている。
同時に1986年、ジョージ・ルーカスのコンピュータグラフィックス部門を買収し、ピクサーとして独立させた。ここでも「ジョブズがピクサーを作った」と書くと不正確になる。エド・キャットムル、アルヴィ・レイ・スミス、ジョン・ラセターら、ジョブズが入る前から技術や映像制作を続けていた人々がいた。
ジョブズは資金を出し、会社を支え、経営上の判断をした。しかし映画を一人で作ったわけではない。1995年、『トイ・ストーリー』が公開され、世界初の長編フル・コンピュータグラフィックス・アニメーション映画として成功し、同年ピクサーは株式公開した。
41歳、アップルへ戻る
1996年末、アップルはネクストの買収を発表した。この買収によってジョブズはアップルへ戻り、ネクストで開発されたソフトウェア技術は後のマック・オーエス・テンへつながっていく。アップルを離れてつくった会社が、アップルへ戻る入口になった。
ここだけ切り取れば「挫折がすべて成功につながった」という完璧な物語になる。しかし、それは後から見るからである。当時のネクストはアップル復帰のために存在した会社ではなく、うまくいかなかった製品や判断も多く抱えていた。
アップルへ戻った後、ジョブズは製品ラインを整理し、組織と製品戦略へ強く介入する。アイマック、アイポッド、アイチューンズ、アイフォーン、アイパッドなどによってアップルは大きく成長した。それでも主語を「ジョブズが作った」と一人にするべきではない。工業デザイン、ハードウェア、ソフトウェア、供給網、店舗、マーケティングの専門家とチームがあり、ジョブズの強みはそれらを同じ方向へ向ける編集にあった。
49歳、がんの手術
2004年、ジョブズは膵臓の希少な神経内分泌腫瘍の手術を受けた。伝記や後年の報道では、診断後すぐに手術を受けず、食事などの補完代替療法を試した時期があったとされる。
この点はしばしば、「科学を無視したため死期を早めた」という教訓に変えられる。しかし、そこまで単純には言えない。公開情報を検討した医学文献でも、手術の遅れが最終的な予後へどの程度影響したかを確定することはできないとされる。病気の種類も、一般にイメージされる膵腺がんとは異なる。
本人の治療選択には批判可能な点があったとしても、結果を知っている後世から「この選択が死を決めた」と断定することは避けたい。
50歳、「点」を語る
翌2005年、スタンフォード大学で卒業式の演説を行う。中退した大学で学んだカリグラフィー、アップルを失ったこと、ネクストとピクサー、そしてがん。それらを「後からつながった点」として学生へ差し出した。
人は、自分の人生をそのまま記憶するわけではない。あとから出来事を選び、順番をつけ、意味を与える。だからこの演説は、ジョブズの人生についての一次資料であると同時に、ジョブズ自身が自分をどう語りたかったかについての資料でもある。
2007年には初代アイフォーンを発表した。舞台上で製品を紹介する姿は、彼のカリスマ的なイメージを決定づけたが、その背後には何百人、何千人という仕事があった。企業の歴史を一人の創業者の性格で説明するのは分かりやすい。しかし、アップルの製品は一人の作品ではなかった。
56歳、最高経営責任者を離れる
2011年1月、ジョブズは健康に集中するため病気療養に入り、8月24日にアップルの最高経営責任者を辞任した。ティム・クックが後任となり、ジョブズは会長へ移る。10月5日、56歳で死去した。
その死後、ジョブズはますます「先見の明を持つ人」「天才」と呼ばれるようになった。確かに、一人の人間が製品や企業文化へこれほど強い影響を与えた例は多くない。ただ、人生を「天才が未来を見抜いた物語」だけにすると、本人の失敗も他人の仕事も消える。
ウォズニアックが設計したアップルI、ネクストでうまくいかなかったハードウェア事業、ピクサーを長年つくってきた人々、アップルへ戻った後の膨大なチーム、そして50歳の本人がそれらを選び直して作った「点がつながる」という物語がある。
人生には、後から意味を与えることができる。でも、意味を与えることと、過去を単純化することは同じではない。ジョブズの生涯は、その違いを考える材料にもなる。

