一人の人生を読む
1歳半、左手に大火傷を負う
1876年11月9日、野口英世は福島県三ツ和村三城潟、現在の猪苗代町に生まれた。幼い頃の名は清作。父・佐代助と母・シカのもとで育った。
1歳半ほどの1878年、清作は囲炉裏に落ち、左手に大火傷を負う。指は癒着し、手の機能には大きな制約が残った。その後の人生を、この火傷だけから説明することはできない。清作には学ぶ機会をつくる教師が現れ、手を治療する医師が現れ、さらに上京や渡米を支える人々が現れる。身体の障害と本人の努力、その周囲にできた人間関係が重なって、後の道が形づくられていった。
少年時代の清作が高等小学校へ進む際、教師の小林栄が進学を勧め、学資を援助したとされる。後に世界的な研究者となる人物も、最初から一人で道を切り開いたわけではなかった。
15歳、患者だった少年が病院で学び始める
1892年、15歳の清作は会陽医院の医師・渡部鼎の手術を受けた。左手の一部が動くようになり、物を持つ機能も改善した。野口英世記念会の伝記では、この経験への感動が医学を志すきっかけになったと説明されている。
翌1893年、清作は会陽医院に書生として入る。手術を受ける側だった少年が、今度は医学を学ぶ側へ移った。ここでは医学だけでなく、英語、ドイツ語、フランス語なども学んだとされる。後に海外で研究生活を送ることを考えると、この数年間は、地方の少年が別の世界へ出ていくための準備期間でもあった。
19歳、上京して医師資格を取る
1896年9月、19歳の清作は医術開業試験を受けるため東京へ向かった。会陽医院に入ってから3年後のことである。東京で生活と受験を支えた人物の一人が、歯科医の血脇守之助だった。
清作は高山歯科医学院で学僕として働きながら勉強を続け、1896年10月に前期試験へ合格した。翌1897年には済生学舎で学び、左手の再手術も受ける。同年10月、後期試験に合格し、20歳で医師資格を得た。
資格を取れば、そのまま開業医になる道もあった。しかし清作は別の方向へ進む。1898年、伝染病研究所に入り、細菌学の研究を始めた。
21歳、「清作」から「英世」へ
研究者への道へ入った頃、清作は名を「英世」に変えている。野口英世記念館の資料では、坪内逍遥の『当世書生気質』に登場する「野々口精作」という人物と自分の名が似ていることを嫌い、小林栄に改名を頼んだとされる。
同じ1890年代の終わりには、海外へつながる人脈もでき始めた。1899年、来日したアメリカの病理学者サイモン・フレクスナー(Simon Flexner)の案内と通訳を務める。この接点が、翌年の渡米先を決める手がかりになった。
24歳、他人の信用を借りて海を渡る
1900年12月、24歳の野口はアメリカへ向かった。渡航を支えたのは本人の意志だけではない。血脇守之助らによる金銭的な援助と人脈があった。東京歯科大学に残る資料には、血脇が渡航費の工面に奔走した経緯も記録されている。
野口には、研究への猛烈な集中力がある一方で、金銭面では不安定さを示す逸話も多い。伝記によって細部や金額が異なる話もあるため、すべてをそのまま人物像へ結びつけることはできない。それでも、渡米という大きな移動が、周囲から差し出された信用によって成立したことは見逃せない。
12月30日、野口はフィラデルフィアに到着し、フレクスナーを訪ねた。ペンシルベニア大学で蛇毒の研究に入り、研究者としての足場を築き始める。
27歳、ロックフェラー医学研究所へ
1903年、野口は奨学資金を得てデンマークの国立血清研究所で学んだ。翌1904年にはロックフェラー医学研究所へ移る。以後、1928年に亡くなるまで、ここが研究の中心となった。
ロックフェラー医学研究所は、設備、研究資金、試料、同僚、出版の場を備えた当時最先端の研究組織だった。野口はそこで、蛇毒、梅毒、ポリオ、狂犬病、黄熱病などへ研究対象を広げていく。野口英世記念会は、生涯に発表した和文・欧文論文を200編以上としている。
地方の農村に生まれた少年が国際的な研究環境へ移った背景には、語学力や実験への集中に加え、教育、奨学金、研究所、支援者といった制度や人間関係があった。
36歳、神経梅毒の研究で大きな成果を残す
1913年、野口はジョゼフ・W・ムーア(Joseph W. Moore)とともに、進行麻痺患者の脳組織から梅毒の原因となる梅毒トレポネーマ(Treponema pallidum)を確認した。梅毒と神経症状の関係を示す研究として、医学史上の重要な成果の一つに数えられている。
この頃までに、野口の名は国際的に知られるようになっていた。ノーベル賞の推薦記録には1913年から1927年まで複数年にわたり名が現れ、合計24件の推薦が確認できる。ただし、これは「最終候補に24回残った」という意味ではない。推薦者から24件の推薦が提出された、という記録である。
評価の高さと、個々の研究が後世まで正しいと認められることは同じではなかった。野口の研究歴には、その両方がはっきり残っている。
高い評価のそばに、再現できない研究もあった
野口は梅毒トレポネーマの培養に成功したと報告し、当時大きな評価を受けた。しかし、この結果は後の研究者が十分に再現できず、現在では当時の主張をそのまま確立した成果として扱うことはできない。
1911年から研究したルエチン皮内反応には、別の問題がある。野口の論文では、対照群に健康な子どもを含む人々が使われていた。ルエチンは梅毒そのものを感染させるものではなく、殺した培養物から作った診断用の抽出物だったが、本人に治療上の利益がない研究目的の注射を健康な人々にも行っていた。
現在の研究倫理審査やインフォームド・コンセントの制度が整うのは、さらに後の時代である。一方、20世紀初頭にも人体実験への批判や同意をめぐる議論は存在した。当時の制度が現在と違っていたことと、その研究方法を無条件に肯定することは別の話になる。
野口の仕事を追うと、科学史に残る成果と、後世から再検討される研究が同じ時期に並んでいる。
38歳、15年ぶりに母シカと再会する
1915年、野口は渡米以来15年ぶりに日本へ帰国した。故郷では母シカと再会する。母が不慣れな文字で帰国を求めた手紙は、現在も野口英世の生涯を伝える代表的な資料として残っている。
ニューヨークを研究拠点にしていた息子と、猪苗代に暮らしていた母。海外へ出たことで故郷との距離は大きくなったが、家族との関係が消えたわけではなかった。野口が日本で母と会ったのは、これが最後となる。
41歳、黄熱病の病原体を追う
1918年、野口はロックフェラー側の黄熱病研究のためエクアドルへ派遣された。患者からレプトスピラの一種を見つけ、これを黄熱病の病原体だと考えるようになる。その説をもとにワクチンと抗血清も作られ、実際に使用された時期があった。
しかし、他の研究者は同じ結果を再現できなかった。1920年代半ばになると反証が重なり、野口が黄熱病の原因と考えていた微生物は、黄熱病ではなく別の病気に関係するものだと考えられるようになった。1926年にはロックフェラー財団も関連ワクチンの配布を中止する。
現在では、黄熱病が細菌ではなくウイルスによって起こることが分かっている。野口が追っていた病原体は、黄熱病の原因ではなかった。
50歳、反証が増えるなかで西アフリカへ向かう
自説への疑いが強まった後も、野口は黄熱病研究をやめなかった。1927年、50歳で西アフリカへ渡り、現地で流行していた黄熱病を調べる。自分の仮説を現地で改めて確かめるためだった。
研究者が誤った仮説を持つこと自体は珍しいことではない。科学は、仮説が反証され、修正されることで進む。しかし、長い時間をかけ、名声とも結びついた自説を手放すことは簡単ではない。野口が当時どのような心境だったのかは、資料から決めつけることができない。残っているのは、反証が積み重なるなかでも検証を続けたという行動である。
51歳、アクラで死去する
1928年5月、アクラで研究を続けていた野口自身が黄熱病に感染した。5月21日、51歳で死去する。
死後の日本では、黄熱病研究に命を捧げた科学者という像が広く語られるようになった。一方、科学史から仕事をたどると、神経梅毒研究の成果、再現されなかった培養研究、人体研究をめぐる倫理上の問題、そして誤っていた黄熱病説が同じ経歴の中に並ぶ。
それでも、後から正解と不正解だけに分ければ、野口の51年は平板になる。左手に大きな障害を負った少年は、教師や医師の支援を受けて学び、血脇守之助らの信用を借りて海を渡った。研究所という制度の中で大量の実験を続け、正しい発見も、後に覆された主張も残した。
野口英世の生涯には、努力だけでも、失敗だけでも説明できない時間がある。科学者の仕事が、ひとつの英雄物語より複雑であることを、その経歴そのものが示している。


