一人の人生を読む
戦争に間に合わなかった軍人
ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower)は1890年、テキサス州デニソンに生まれ、幼いころに家族とカンザス州アビリーンへ移った。七人兄弟の三男で、1909年に高校を卒業したあと、ベル・スプリングスの乳製品工場で働いている。1911年、20歳で陸軍士官学校ウェストポイントに入り、1915年に卒業した。
翌1916年、テキサスで知り合ったメイミー・ダウド(Mamie Doud)と結婚する。1917年には長男ダウド・ドワイトが生まれたが、1921年、猩紅熱で3歳のまま亡くなった。次男ジョンが生まれるのはその翌年である。軍人の家庭として転勤を重ねる生活のなかで、公的な経歴とは別の時間も進んでいた。
軍人としては、思うように戦場へ行けなかった。アメリカが第一次世界大戦へ参戦すると、アイゼンハワーは海外勤務を望んだが、任されたのは国内での兵士や戦車部隊の訓練だった。ヨーロッパへ向かう機会が来る前に、1918年11月の休戦を迎える。後に第二次世界大戦の英雄として知られる人物は、最初の世界大戦では国外の戦場に出ていない。
1919年には陸軍の大陸横断自動車輸送隊に加わった。81台の軍用車両がワシントンからサンフランシスコまで約3,251マイルを走る試みで、移動には約2か月を要した。未舗装路や弱い橋に悩まされたこの経験は、のちに大統領として高速道路整備を進める際に、本人が振り返った原体験の一つになる。ただし、州間高速道路網の計画そのものは彼の大統領就任以前から存在しており、後の制度を一人の発案へ還元することはできない。

1919年、大陸横断自動車輸送隊に参加したアイゼンハワー(右端)。Eisenhower Presidential Library / Wikimedia Commons。Public Domain。 出典
戦わない時間が、軍人をつくる
1922年、31歳のアイゼンハワーはパナマ運河地帯でフォックス・コナー将軍(Fox Conner)のもとに配属された。コナーは彼に歴史、軍事学、哲学を広く読むよう勧め、陸軍指揮幕僚大学への進学にも力を貸した。アイゼンハワーは1926年、245人の同期の首席で同校を卒業する。
その後も仕事の中心は、前線で兵を率いることより、計画を立て、上官を補佐し、組織を動かすことだった。陸軍省勤務を経て、1930年代にはダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)の補佐を務め、1935年からはフィリピンで新しい軍隊の整備に関わった。軍事計画だけでなく、政府や行政組織との調整を続ける年月だった。
第一次世界大戦では海外の戦場に出ず、戦間期には参謀や補佐役の仕事が長く続いた。1941年12月の真珠湾攻撃の時点で、アイゼンハワーは51歳。大規模な実戦部隊を率いた経験よりも、計画、調整、参謀勤務の経験のほうがはるかに長かった。
51歳から始まった急上昇
1941年12月、日本軍が真珠湾を攻撃すると、陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル(George C. Marshall)はアイゼンハワーを陸軍省へ呼び戻した。太平洋方面の計画に関わったのち、翌1942年には戦争計画部長へ昇進する。6月にはヨーロッパ戦域の米陸軍司令官としてイギリスへ送られ、11月には北アフリカ上陸作戦を指揮した。
ここからの昇進は、それまでの長い時間と対照的である。1943年12月には連合国遠征軍最高司令官となり、アメリカ、イギリス、カナダなど複数の国の軍を束ねる立場についた。必要だったのは戦術の知識だけではない。各国政府、参謀、陸海空軍、強い個性をもつ将軍たちの意見を一つの作戦へまとめていく仕事でもあった。

1943年、四つ星将軍時代のアイゼンハワー。U.S. Army / Wikimedia Commons。Public Domain。 出典
アイゼンハワーが50代で担うようになった仕事は、規模こそ急激に大きくなったが、それ以前から続けてきた計画と調整の延長にもあった。華々しい戦歴より先に、資料を読み、計画を組み、人のあいだを調整する年月が積み重なっていた。
1944年6月5日、結果のまだない一日
1944年6月、連合軍はノルマンディー上陸作戦「オーバーロード」を目前にしていた。問題の一つが天候だった。悪天候のため当初予定していた6月5日の上陸は延期され、さらに待つか、6日に実行するかを決めなければならなかった。6月5日の夜明け前、アイゼンハワーは作戦を実行する判断を下した。
同じ日、彼は一枚の短いメモを書いている。もし上陸が失敗した場合に発表するための文章だった。そこでは、撤退の責任を兵士や部下へ転嫁せず、攻撃の時期と場所を決めた責任を自分が負うという趣旨が記されていた。実際には使われなかった文書で、日付は誤って「7月5日」と書かれている。

1944年6月5日、上陸作戦が失敗した場合に備えてアイゼンハワーが書いた声明。U.S. National Archives / Wikimedia Commons。Public Domain。 出典
夕方には、まもなくフランスへ向かう第101空挺師団の兵士たちを訪ねた。トップに置いた写真は、その6月5日に撮られたものである。その数時間後、兵士たちは輸送機で出発し、翌6日にノルマンディー上陸作戦が始まった。失敗時の声明が使われることはなく、連合軍はフランス沿岸に橋頭堡を築いた。
将軍から大学総長、NATO、そして大統領へ
ヨーロッパでの戦争が終わると、アイゼンハワーは陸軍参謀総長を務めたのち、1948年にコロンビア大学(Columbia University)の学長となった。1950年にはハリー・S・トルーマン大統領の要請で軍務へ戻り、北大西洋条約機構(NATO)の初代欧州連合軍最高司令官に就任する。軍、大学、国際組織と、扱う組織の性格は変わっても、大きな仕組みを調整する仕事は続いた。
1952年、61歳で共和党の大統領候補となり、翌年アメリカ合衆国第34代大統領に就任した。1953年7月には朝鮮戦争の休戦協定が成立し、1956年には連邦補助高速道路法に署名する。1919年の大陸横断輸送隊や、第二次世界大戦中に見たドイツのアウトバーンは、本人が後年、高速道路への関心を説明するときに挙げた経験だった。一方で、アメリカの州間高速道路計画は1930年代から40年代にかけてすでに制度的な準備が進んでおり、アイゼンハワー政権はそれを大規模な建設と財源の仕組みへ結びつけた。
大統領職は健康不安とも並行した。1955年9月、64歳で大きな心臓発作を起こし、翌年の再選出馬は一時不透明になった。それでも回復後に再出馬し、1956年の選挙で再選されている。

1959年の公式肖像。White House / Eisenhower Presidential Library / Wikimedia Commons。Public Domain。 出典
法を執行した大統領、しかし評価は一方向ではない
人種差別をめぐるアイゼンハワー政権の記録は、単純な進歩の物語にはできない。1957年、彼は再建期以来初となる連邦公民権法に署名した。同じ年、アーカンソー州リトルロックでは、黒人学生9人のセントラル高校への登校を州兵と群衆が妨げる事態が起きた。
州知事オーヴァル・フォーバス(Orval Faubus)が連邦裁判所の命令に従わない状況で、アイゼンハワーはアーカンソー州兵を連邦政府の指揮下に置き、第101空挺師団を派遣した。第二次世界大戦で彼が訪ねた同じ部隊が、13年後にはアメリカ国内で黒人学生を学校へ入れるための護衛に使われたことになる。
ただし、ここから「公民権運動を積極的に先導した大統領」という像をつくるのも正確ではない。後世の研究では、彼が連邦法と裁判所命令を守ることには動いた一方、人種平等そのものを道徳的課題として前面に掲げることには慎重だった、と評価されてきた。リトルロックでの行動の重要性と、より強い政治的・道徳的リーダーシップを求められたという批判は、同時に置いて考える必要がある。
軍人が、軍事組織の力を警告して去る
1961年1月17日、大統領退任を前にしたアイゼンハワーは国民向けの演説を行った。そこで語られた言葉の中で、もっとも長く残ったのが「軍産複合体(military-industrial complex)」である。巨大な軍事組織と兵器産業の結びつきが、政府の意思決定に不当な影響力を持つ危険を警告した。
これは軍事力そのものを否定する演説ではなかった。冷戦下で強力な防衛体制が必要だと認めたうえで、それが恒常的な巨大組織になったことによる危険も見ていた。生涯の大半を軍に所属し、第二次世界大戦で巨大な連合軍を率った人物が、政治家としての最後に、その軍事力を民主政治がどう制御するかを問題にしたのである。
1969年3月28日、アイゼンハワーは78歳で死去した。連合軍最高司令官や大統領として知られる一方、軍歴の前半には、戦場に出られなかった時期、参謀として働いた時期、上官を補佐していた時期が長く続いた。50代以降に任された巨大な組織を動かす仕事は、その長い参謀勤務と切り離して見ることはできない。



