1868年4月11日、江戸城は新政府軍へ引き渡された。江戸には大勢の人が住み、城の周囲には武家屋敷が並んでいた。大軍同士が市街地で戦えば、町の人びとも巻き込まれる。城が大きな戦闘なしに引き渡されたことは、江戸の人にとって重要な出来事だった。
それなのに、戦争は終わらなかった。5月には上野で戦いが起こり、東北では会津などの藩が新政府軍と戦った。翌1869年には、遠く北海道の箱館でも戦争が続いていた。
そもそも徳川慶喜が政治の権限を朝廷へ返す大政奉還を申し出たのは、前年の1867年10月である。幕府の政治は終わりへ向かっていたのに、なぜ人びとはさらに戦わなければならなかったのだろう。
坂本龍馬、勝海舟、西郷隆盛、土方歳三。この4人の進路を見ると、「新しい政府ができる」という決定と、「それに全員が従う」という現実の間に、長い距離があったことが分かる。
幕府が終わる前後に何が起きたのか
まず時期を並べてみよう。
- 1867年10月:徳川慶喜が大政奉還を申し出る。幕府が持っていた政治の権限を朝廷へ返そうとした。
- 1867年12月:朝廷で王政復古が宣言され、新政府の形がつくられ始める。徳川家の土地や政治上の地位は争点のままだった。
- 1868年1月:京都の鳥羽・伏見で旧幕府側と新政府側の軍が衝突する。これが戊辰戦争の始まりとなった。
- 1868年4月:江戸城が大きな戦闘なしに新政府へ引き渡される。
- 1868年5〜9月:上野、北越、東北などで戦争が続き、会津藩も降伏する。
- 1869年5月:箱館で旧幕府側の軍勢が降伏し、戊辰戦争が終わる。
戊辰戦争とは、1868〜1869年に新政府軍と旧幕府側の諸勢力が戦った内戦のことである。外国との戦争ではなく、日本の中で政治の行方をめぐって戦った。
この流れの中に、4人は違う場所から関わった。
坂本龍馬――戦争が始まる前に命を落とした
刀を学んだ若者が、船の仕事へ進む
坂本龍馬は1835年、土佐藩の郷士の家に生まれた。若いころは剣術を学んだが、のちに土佐藩を離れ、幕府の海軍を整えようとした勝海舟のもとで学ぶ。
海軍は、刀の腕前だけでは動かない。船を操る技術、航海の知識、物資を運ぶ仕組み、費用をまかなう組織が必要だった。龍馬は長崎で亀山社中、のちの海援隊の活動に関わり、船と商売を通じて各藩をつなぐ仕事を進めた。
1866年、薩摩と長州が協力する約束を結んだ際には、その関係を支える役割を担った。木戸孝允が内容を書き記した書面の裏には、龍馬が確認したという趣旨の言葉が残っている。
1867年11月、政治の行方を見る前に亡くなる
1867年、将軍慶喜は大政奉還を申し出る。龍馬自身も、将来の政治のあり方をめぐる案を持っていたが、新政府がどのような形になるかはまだ決まっていなかった。
同年11月、龍馬は京都の近江屋で襲われ、亡くなる。新政府と旧幕府軍が鳥羽・伏見で戦うのは、その翌年のことだ。
龍馬はその戦争の結果を知らない。後に続く人物と並べると、政治を変えるために人と人を結んでいた龍馬が、変わった後の政治を実際に見ることはなかったという時間の違いがある。
勝海舟――江戸を戦場にしないために交渉した
幕府の役人でありながら、新しい時代を考える
勝海舟は幕臣として働き、海軍の近代化に携わった。咸臨丸で太平洋を渡り、神戸海軍操練所などで人を育てた。龍馬にとっても、その仕事を学んだ相手である。
1868年、鳥羽・伏見で旧幕府軍が敗れると、新政府軍は東へ進んだ。徳川慶喜は抵抗をやめる姿勢を示していたが、旧幕臣たちの考えは一つではなかった。
勝は旧幕府側で軍事を担う立場から、江戸へ向かう軍勢との交渉にあたった。
西郷隆盛と、江戸城をどうするか話した
1868年3月、勝は新政府側の西郷隆盛と会談した。新政府軍は江戸城を攻撃する準備を進めていた。勝が求めたのは、徳川側の処遇をめぐって話し合い、江戸での大規模な戦闘を避けることだった。
交渉の結果、江戸城は4月11日に引き渡された。江戸の中心で大軍同士が戦う事態は避けられた。
しかし江戸城を差し出すという決定が、旧幕府軍のすべての兵士へ同じように受け入れられたわけではない。5月、上野の寛永寺周辺では、旧幕府を支持する彰義隊と新政府軍が戦った。
城を引き渡すことと、城のために戦っていた人が武器を置くことは、別の出来事だったのである。
福沢諭吉――大砲の音が響く町で、授業を続けた
1868年、上野戦争の日の慶應義塾
旧幕府側の彰義隊と新政府軍が上野で戦った日、江戸では別の仕事を続けていた人もいた。
福沢諭吉はそのころ、芝新銭座に開いた慶應義塾で学生たちに教えていた。1868年の旧暦5月15日、現在の暦では7月4日、上野で大砲が撃たれ、その音が江戸の町へ響く中、福沢は予定どおり授業を行った。
教材はアメリカの学者フランシス・ウェーランドが書いた経済学の本だった。経済学とは、人が働き、商品を売り買いし、お金を使う仕組みを考える学問である。武装した部隊が町の一角で戦う日に、塾生たちは経済の話を聞いていた。
福沢は幕府を支える軍人でも、新政府軍の指揮官でもなかった。しかし政治が大きく変わるときに、学問を続ける場所を失わないことを自分の仕事としていた。
龍馬が海運や政治の構想に関わり、勝が城の引き渡しを交渉していたころ、福沢は戦争のさなかに教室を続けた。幕府の終わりに暮らしていた人たちが、すべて武器を取ったわけではない。
西郷隆盛――江戸で戦いを避けても、別の戦場へ向かった
新政府の側にいた軍人
西郷隆盛は1828年、薩摩藩に生まれた。幕末の政治に関わり、1868年には新政府軍の中心的な役割を担う。
江戸で勝海舟と会談した西郷にとっては、徳川家をどう扱うか、江戸の町をどう守るかが重要な問題だった。しかし新政府側の軍が目的としていたのは、江戸城だけを手に入れることではない。日本各地の大名や兵が、新しい政治のもとでどう行動するのかという問題が残っていた。
会津と東北では、抵抗する理由が違った
旧幕府と関係の深い会津藩は、新政府から厳しい追及を受けていた。東北の諸藩は会津への処分を軽くするため、話し合いでの解決を求めた。しかしその働きかけは成功せず、諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して新政府軍に対抗する。
1868年の会津戦争では、城下町も戦場となり、多くの犠牲者が出た。江戸で城を引き渡したことが、会津の問題まで解決するわけではなかった。
同じ新政府側の軍にいても、西郷が江戸で担った交渉と、北越・東北で繰り広げられた戦いには別の事情があった。全国の政治が変わる過程は、一つの会談だけで終わらなかった。
1873年、今度は新政府を去った
戊辰戦争の後、西郷は新政府の中心で働いた。1871年の廃藩置県では、従来の藩を廃止して府と県へ改め、政府が全国を治める仕組みをつくる仕事に関わった。
しかし1873年、西郷は政府の職を辞し、鹿児島へ戻った。1877年には西南戦争が起こり、西郷は自分がかつて支えた政府の軍と戦って亡くなる。
西南戦争は1868〜69年の戊辰戦争とは別の戦争である。幕府が終わった後も、新しい政治のあり方をめぐる争いが続いたことを示している。政権をつくった人たち自身も、次の十年を同じ立場で過ごしたわけではなかった。
土方歳三――将軍が退いても、戦う側に残った
多摩から京都へ
土方歳三は1835年、現在の東京都日野市にあたる多摩の農家に生まれた。剣術を学び、1863年に近藤勇らと京都へ向かい、新選組の副長となった。
新選組は京都守護職の会津藩のもとで市中の警備にあたり、幕府を支持する側に立った。池田屋事件などで知られる一方、組織の運営には人員の補充、訓練、故郷の人びととの連絡も必要だった。土方は多摩の親族や支援者へ、そうした仕事を報告する手紙も書いている。
旧幕府の軍とともに北へ向かう
1868年、土方も旧幕府側として戦いに加わった。新選組の中心だった近藤勇は処刑され、土方はなお戦いを続けた。
戦場は江戸周辺から東北へ、さらに箱館へ移った。旧幕府の海軍を率いた榎本武揚らは、北の土地を拠点として新政府と対抗しようとした。土方もその軍の一員となる。
1869年5月、土方は箱館で戦死する。その後、榎本らの軍が降伏し、戊辰戦争は終わった。
家康の時代から続いた幕府がすでになくても、土方にとっては仲間や部隊との関係が残り、戦争の場で選んだ立場があった。将軍個人が政治から退くことだけでは、兵士や部隊の判断までは決まらなかった。
戦争が終わらなかった三つの理由
① 幕府の政治を返しても、土地と軍隊は残った
大政奉還で政治の権限を返しても、徳川家の領地、各藩の軍、城、武器、人を率いる大名の力がその日に消えるわけではない。
新政府は全国を統治する立場を確立しようとし、旧幕府側には受け入れがたい処遇を迫られた人もいた。京都や江戸で政治上の決定がなされても、それを各地で実現するには別の仕事が必要だった。
② 同じ旧幕府側でも、判断は分かれた
勝海舟は江戸城を引き渡す交渉を進めた。一方、彰義隊や土方たちは戦った。会津や奥羽越の諸藩には、徳川家だけでなく、自分たちの地域や藩の処遇をめぐる事情があった。
同じ「幕府側」という言葉で呼んでも、誰が何のために戦おうとしたかは一人ずつ違っている。
③ 新政府をつくることと、人びとが従うことには時間差があった
龍馬は新しい政治の行方を見ずに亡くなった。勝は江戸の戦いを避けた。西郷はその後も新政府の中心で働き、やがて政府を去った。土方は最後まで旧幕府側の軍と戦った。
龍馬、勝、西郷、土方の異なる道に、福沢の教室を重ねると、幕府の終わりを一つの「明治維新」という言葉にまとめても、生きている人がその変化を受け入れ、暮らしや役割を変えるには長い時間がかかったことが分かる。
読む順序を選ぶなら
まず坂本龍馬から始めると、幕府が終わる前にどんな政治が求められていたかが見える。次に勝海舟を読むと、戦いを避けるために何を交渉したのかが分かる。
福沢諭吉の学校の仕事をはさみ、さらに西郷隆盛の新政府での仕事と辞職、土方歳三の京都から箱館への道をたどると、幕府がなくなった後も人びとの判断が違った理由が具体的になる。
幕末の終わりは、一つの城を落とした日や、一人の将軍が職を返した日だけでは決まらなかった。京都、江戸、東北、箱館と場所を変えて続いた戦争の中で、新しい政治はようやく全国へ広がっていった。


