私は遺言はしない。
普段言っていることが、
皆遺言です。
社会に影響を与えた女性実業家
広岡浅子
の生涯
広岡浅子は、日本の近代化において女性の地位向上に貢献し、実業家・教育者・社会活動家として活躍した。彼女は単なる経済人ではなく、女子教育の発展にも尽力し、社会全体の構造を変える先駆者であった。その精神は「九転十起生」というペンネームにも表れている。何度倒れても立ち上がり、困難を乗り越えていく──その生き様は、現代の私たちにとっても示唆に富む。
反骨の精神──13歳で芽生えた学びへの決意
1849年、京都の三井家に生まれた浅子は、当時の良家の子女が受ける裁縫や茶道、生け花の教育よりも、四書五経などの学問に強い関心を抱いたという。しかし、当時の風習では「女に教育は不要」とされ、家族から読書を禁じられた。
だが、浅子は納得できなかった。
「女子と雖も人間である。学問の必要がないという道理は無い」──13歳の頃には、すでにこうした考えを抱き、何とかして学ぶ道を探ろうとする。
17歳で大阪の豪商・加島屋の次男、広岡信五郎と結婚をしている。加島屋は大坂を代表する商家であったが、明治維新による経済の混乱で危機に直面することになる。しかしながら、そんな未曾有の状況でも、夫や家族が商売に関心を持たなかった。そこで彼女は独学で簿記や算術を学び、経営の道に踏み出す。これは、当時の女性としては極めて異例な決断であった。もちろん、時代をこえてこのような決断をできる人はそういないのは変わらない。
実業家としての目覚め
明治維新後、加島屋の財政はますます逼迫し、商家の存続すら危ぶまれた。そこで浅子は、自ら経営に関わり、石炭事業へと進出する。1884年、吉田千足とともに「広炭商店」を設立。筑豊の炭鉱から石炭を仕入れ、国内外へ販売する事業を展開した。しかし、輸送コストの問題から経営は困難を極める。
転機となったのは、潤野炭鉱の取得だった。浅子は単身で九州へ赴き、護身用にピストルを懐に忍ばせ、坑夫たちと生活をともにしながら炭鉱の再生を図った。女性が経営に関与することすら珍しい時代に、彼女の大胆な行動は「狂人」と呼ばれるほどだった。
しかし、この挑戦は実を結ぶ。1897年、潤野炭鉱はついに産出量が急増し、優良炭鉱へと生まれ変わる。何度挫折しても決して諦めない彼女の姿勢は、後に「九転十起」の精神として語り継がれることになる。
女子教育への転機──成瀬仁蔵との出会い
事業の成功後、浅子はさらに社会貢献に目を向けた。特に、彼女が重視したのは女子教育の改革だった。1896年、彼女は成瀬仁蔵の訪問を受け、女子高等教育の必要性について語られる。彼の著書『女子教育』を繰り返し三度読み、「感涙止まらなかった」と述懐するほどの共感を抱いた。
当時、女性に教育を受けさせることは革新的な考え方だった。しかし、浅子は自身が学問を禁じられた経験を踏まえ、「女子にも男子と同じ教育を」と信じていた。彼女は資金提供だけでなく、実際に政財界の有力者を説得し、1901年の日本女子大学設立に尽力する。彼女の支援なくして、日本女子大学の創設は実現しなかっただろう。
社会改革への情熱は続く
1904年、夫・広岡信五郎が死去。これを機に彼女は事業を娘婿に託し、社会活動に専念するようになる。彼女は婦人運動や廃娼運動に取り組み、キリスト教にも深く傾倒していった。
1911年には受洗し、「女性の霊的修養こそが人格の向上に不可欠」と考え、宗教を通じた女性教育にも尽力した。彼女は「女性の第二の天性は猜忌、嫉妬、偏狭、虚栄、わがまま、愚痴であり、西洋婦人は宗教により霊的修養をしている」と述べ、日本の女性も精神的に成長すべきと訴えた。
晩年には、若い女性を集めた夏期勉強会を開催し、後の教育者や文学者を育てる場を提供した。村岡花子は「浅子の教えが作家を志すきっかけになった」と回想している。
遺言なき遺産
1919年、広岡浅子は腎臓炎のため東京で逝去。彼女は「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と言い残した。
彼女の影響は、現代にも色濃く残っている。彼女が設立に関わった大同生命は今も続き、日本女子大学は女性教育の中心的な存在であり続けている。また、「何度でも立ち上がる」という彼女の精神は、多くの人々に勇気を与えている。
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おすすめの本:
参考文献:
広岡浅子 – Wikipedia
明治の女性実業家 広岡浅子 | 日本女子大学の歴史 | 日本女子大学
5分でわかる広岡浅子 | 大同生命を知る | 大同生命