凍りついた音楽
近年再発見された建築家
ヤン・サンティーニ・アイケル
の生涯
壁の向こうから、光が湧き上がる――「見えない窓」を設計した男
礼拝堂に足を踏み入れた人は、まず光に驚く。内部は明るい。ところが、その光を運ぶはずの窓が、視界にほとんど入ってこない。壁と柱の“背後”から光がにじみ出るように感じられる――そんな錯覚を、ヤン・ブラジェイ・サンティーニ=アイケルは、設計という手段でつくり出した。
彼が生きたのはバロックの時代だ。しかし彼は、そこにゴシックを結びつけた。相反するはずの二つの様式が、彼の手にかかると、ひとつの言語として立ち上がる。のちに「バロック・ゴシック」と呼ばれるその発明は、祈りの場を、ただの建物ではなく、意味と象徴と幾何学が折り重なる“体験”へ変えた。
石工の家に生まれ、石工になれなかった少年
サンティーニ=アイケルは1677年2月3日、プラハに生まれた。母はチェコ人、父はイタリア系の出自をもつ石工で、プラハの石工・石職人の家系の長男だった。生まれた日は聖ブレイズ(ブラジウス)の祝日に当たり、彼の名「ブラジェイ」はそのチェコ語形に由来する。誕生の翌日にはプラハの聖ヴィート大聖堂で洗礼を受け、ヨハン・ブラジウス・アイケル(Jan Blažej Aichl/Johann Blasius Aichel)として記録された。
ただし、家業の石工としての道は、最初から閉ざされていた。彼は生まれつき健康上の障害を抱え、小柄で背が曲がり、脚も不自由だったとされる。呼吸や歩行が十分にできなかったとも語られている。石を切り、運び、彫る。そうした重労働を担うことが難しい身体は、同時に、別の才能の入口にもなった。
彼は幼いころ、父が仕事をしていた聖ヴィート大聖堂の近くで、そのゴシックの美と威厳に強く惹かれたとされる。尖塔、垂直性、光と影の対比。少年期に刻まれたゴシックの記憶は、のちに彼がバロックの語彙でゴシックを再解釈するとき、深い底流になっていく。
画家として鍛えられ、建築へ転じる――最初の師との出会い
石工になれない息子に、父が与えたのは別の専門だった。サンティーニ=アイケルはまず絵画を学ぶ。師のひとりに、プラハ城の絵画コレクション管理者でもあった画家クリスティアン・シュレーダーがいる。絵を学んだ経験は、のちの建築に決定的な特徴を与える。彼は建築を“彫刻的”に扱うだけでなく、“絵画的”に構想した。線、面、陰影、視線の誘導。空間をキャンバスのように考える感覚が、彼の設計を独自のものにした。
やがて彼は建築へ軸足を移す。家族の技術的環境に加え、学びの場として重要だったのが、当時の著名な建築家ジャン=バティスト・マテイ(Jean-Baptiste Mathey)との関係だ。マテイの死後、サンティーニ=アイケルがその計画と顧客を引き継いだことは、彼が早くから専門家として信用を獲得していた事実を示す。
旅が「ゴシック」と「バロック」をつなげた――ローマで見た衝撃
17世紀末、彼は職人の修業旅(旅する職人=コンパニョン的な遍歴)としてオーストリア、そしてイタリアへ向かい、ローマにも滞在した。そこで出会ったのが、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、そして何よりフランチェスコ・ボッロミーニの作品だった。さらにグァリーノ・グァリーニや、ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハの影響も挙げられている。
ローマのバロックは、重厚で、劇的で、空間が動く。壁が直線で終わらず、うねり、湾曲し、視線を連れ去る。その感覚は、プラハで幼少期に刻まれたゴシックの垂直性と、どこかで響き合ったのだろう。帰国後、彼は「バロックの運動」と「ゴシックの骨格」を、単なる折衷ではなく、新しい統合として設計に組み込んでいく。
また、この旅のなかで彼は自らの名の扱いも変える。現在「サンティーニ」と呼ばれる呼称は、じつは父の名に由来する。父の名サンティーニ(Santini)を、彼と兄弟が敬意を込めて自らの名に取り入れたと説明されている。結果として彼は、Jan Blažej Santini Aichel、Giovanni Santini、Johann Blasius Santini-Aichelなど、複数の名で知られる人物となった。
1700年、ギルド入り――そして、異様なスピードで成功する
1700年、彼はすでに建築・建設のギルドに属し、職能集団の一員として公認されていた。1705年にはプラハのマラー・ストラナ(小地区)で市民権を得たともされ、同じころマラー・ストラナに家を購入している。ネルトゥドヴァ通りの家(後に「サンティーニの家」と呼ばれることがある)に暮らし、のちには近隣の別の家にも住んだと記録される。
成功は早い。重要な教会建築の再建を任され、専門家としての名声を確立し、依頼は増えていく。彼は裕福になり、ボヘミアの貴族に金を貸すほどの資産を持つに至ったという。仕事は名誉だけでなく富ももたらした。しかし同時に、それは働き方を苛烈にする。彼は「ロマンチストで変わり者」と評される一方、名声と金銭への欲求が仕事量を押し上げ、短い期間に驚くほど多くの計画を描き続ける。
家族の幸福と喪失――成功の陰で起きたこと
1707年、彼は最初の師の娘ヴェロニカ=エリザベト(Veronika Alžběta)と結婚する。子どもは4人。男児3人(1707年、1708年、1710年に出生)と女児1人(1713年に出生)がいた。しかし男児3人は幼くして結核で亡くなったとされる。さらに1720年、最初の妻も亡くなる。
同じ1720年、彼は南ボヘミアの貴族の女性アントニア・イグナツィア・フジェピツカー(Antonia Ignatia Chřepická z Modliškovic)と再婚する。この結婚は社会的上昇を象徴し、彼は貴族身分に達したとされる。二人の間には1721年に娘ヤナ・ルドミラ、そして1723年には息子ヤン・イグナツ・ロフが生まれる。子どもたちの名付け親には、彼の顧客でもあるボヘミア上級貴族が並ぶ。建築家としての地位が、社交の中心へ彼を押し上げていた。
「古いもの」を、時代の最先端へ――バロック・ゴシックという発明
サンティーニ=アイケルの代名詞が、バロック・ゴシックだ。バロックの表現力と、ゴシックの構造・象徴性を統合する。そこには、当時の宗教状況も影を落としていた。ボヘミアではカトリックの対抗宗教改革が進む一方、古い修道会(ベネディクト会、シトー会、プレモントレ会など)は、自らの歴史の古さと正統性を示す必要があった。ゴシックの引用は、その視覚的な証明になり得た。彼がこの様式を、とくに古い修道会の依頼で多用したこと、そしてイエズス会のためには仕事をしなかったことは、彼の活動領域を特徴づける。
作風の核は「表情の強さ」にある。壁を反らせ、曲面を用い、ファサードを動的にモデリングする。そこへ、ゴシックの尖頭アーチが入り込む。尖頭アーチは、バロックの渦の中で、厳粛で古風で、時に保守的にすら見える。しかし彼は、その“古さ”を逆手に取り、建物に格と権威の肌触りを与えた。
さらに、彼は象徴と対称性を好み、幾何学的秩序を建築に埋め込んだ。建築家に必要な教養を広く挙げるウィトルウィウスの理想像(文学、デッサン、幾何学、歴史、哲学、音楽、医学、天文学など)を引きながら、彼の多面的な関心と視野の広さが語られることもある。実際、彼の設計には幾何学が骨格として働き、見た目の劇性を支えている。
「まず、セドレツで名が走った」――代表作が示す実力
彼の名声を大きく押し上げた仕事のひとつが、クトナー・ホラ近郊セドレツ(Sedlec)での再建だ。1703年、聖母マリア被昇天と洗礼者ヨハネの教会の改修が始まり、のちに納骨堂(諸聖人礼拝堂)の仕事も手がけた(1712~1714年)。ゴシックを帯びたバロックとしての説得力が、ここで強烈に示されたとされる。宗教建築の再構築が、単なる修復ではなく、思想と様式の再編集になりうることを、彼は実務として証明した。
同時期から、彼はシトー会の「公式の建築家」と言える位置づけへ近づく。依頼が連鎖し、修道院、教会、付属施設、さらには貴族の館へと領域が広がる。
五芒星の平面に、祈りを刻む――ゼレナー・ホラの奇跡
サンティーニ=アイケルの最も有名な作品は、ヴィソチナ地方、ジュジャール・ナド・サーザヴォウ近郊ゼレナー・ホラ(Zelená Hora)の「聖ヨハネ・ネポムツキー巡礼教会」だ。建物の平面は五芒星。周囲には回廊が巡り、全体が象徴と幾何学のひとつの結晶になっている。1723年に彼は亡くなるが、工事は1719年から進み、1727年まで続いたとされる。
この教会で特筆されるのが「光の演出」だ。内部は38の窓で照らされる。しかしその窓は、来訪者にとって“見えにくい”。とくに二階の背の高いゴシック窓が主要な採光を担いながら、視線から巧妙に隠されることで、光が壁や柱の背後から発しているかのような錯覚が生まれる。劇場的なバロックの精神と、ゴシックの垂直性が、ここでは「目に見えない仕掛け」として融合する。
1994年、このゼレナー・ホラの巡礼教会はユネスコの世界遺産に登録された。彼の死から約270年後、最も象徴的な作品が世界的な評価を獲得したことになる。
修道院から城まで――「百を超える設計」を短期間で描き切る
サンティーニ=アイケルの活動は驚異的に多作だ。20年に満たない創作期間に、百を超える教会、修道院複合施設、貴族の宮殿や館の計画を描いたとされる。作品目録では158棟が挙げられ、ほとんどが今日のチェコに位置し、一部はザクセンにも及ぶという。
代表作として確実に帰属されるものには、プルゼニ近郊クラドルビ(Kladruby)修道院の教会再建(1701年頃から)、セドレツの再建、ゼレナー・ホラの巡礼教会、マリアーンスカー・ティーニツェ(Mariánská Týnice)修道院(1711年頃から)、プラシー(Plasy)修道院(1711~1723年)、そしてキンスキー伯爵家のためのカルロヴァー・コルナ(Karlova Koruna)城(1721~1723年)が挙げられる。カルロヴァー・コルナは「王冠」を思わせる構成で、中央の円形空間に大広間を置き、三つの翼が取り巻く平面を持つと説明される。
また彼は、設計だけの人物でもなかった。ギルドに属し、現場の人々を組織し、石工集団を率いたとも語られる。プラシー修道院では複雑な灌漑システムを考案したとされ、技術者・工学者としての側面も見せる。とはいえ、彼は主としてプロジェクトを描く設計者であり、実施工は他の建築家、たとえばフランティシェク・マキシミリアン・カニカ(F. M. Kaňka)らが担うことも多かった。設計の量が膨大だったからこそ、分業によって初めて成立した仕事でもある。
46歳で早逝――燃え尽きるような生涯
1723年12月7日、サンティーニ=アイケルはプラハで亡くなった。46歳だった。名声、富、社会的地位。どれも手にしていた一方、家庭では子どもたちの死と妻の死を経験し、仕事では息つく間もないほどの依頼に追われた。短い生涯が濃密だったことは、残された設計群そのものが証明している。
20世紀が「理解した」建築家――遺産の生き方
サンティーニ=アイケルの独創は、同時代から称賛されながらも、理解し尽くされていたわけではない。彼の造形は共同作業者にとって「先見的で理解しがたい」と映ることもあったとされる。それでも、その影響は後世へ届き、キリアン・イグナツ・ディーンツェンホーファー(K. I. Dientzenhofer)の円熟したバロック表現にも波及したと語られる。
そして決定的なのは、20世紀以降の再評価だ。彼の仕事は「時代を先取りしていた」とされ、ようやく本格的に発見され、価値づけられていく。1994年の世界遺産登録は、その象徴的な到達点のひとつになった。
さらに、彼の名は建築史だけに留まらない。1996年には小惑星37699「Santini-Aichl」が彼にちなみ命名された。また現代のプラハには、彼の名を冠するイタリア語話者のフリーメイソンのロッジが存在するとされる。石と光と幾何学で世界を組み替えた建築家は、死後も別のかたちで呼び戻され続けている。
結び――「古い様式」を、未来へ投げた
バロックが世界を劇場に変えた時代に、サンティーニ=アイケルは、そこへゴシックを連れ込んだ。古い尖頭アーチは懐古ではなく、正統性を示す記号となり、同時に新しい空間体験の部品になった。五芒星の平面、隠された窓、光の錯覚、象徴と対称性、曲面の躍動。彼の建築は、信仰のための器である以上に、見る者の感覚を設計する装置でもあった。
石工の家に生まれ、石工になれなかった少年が選んだのは、石を刻む代わりに、空間を刻む道だった。その刻み目は、300年を越えてなお、人を立ち止まらせる。壁の向こうから光が湧き上がる瞬間、私たちは気づく。建築は、目に見えるものだけでできていない。見えない秩序――つまり思想――が、そこに息づいている。サンティーニ=アイケルが残したのは、まさにその「見えないもの」を形にする技術だった。


