父から一度も『愛してる』と言われたことがありません。
家族にはいつも、『あなたがいちばんバカな子』と言われていました。
彼女は、世界の光になろうとした
ダイアナ妃
の生涯
1997年1月、アンゴラの地雷原。 ひとりの女性が慎重に足を踏み出していく。彼女が進む先には、戦争の爪痕が残されたままだった。防護服をまといながらも、その歩みは力強く、迷いがなかった。世界が固唾をのんで見守る中、彼女は言った。
「地雷は、戦争が終わった後も人々を殺し続ける」
この言葉は、世界に衝撃を与えた。王族でありながら、彼女は宮殿の中にとどまることなく、最も傷ついた人々のもとへと足を運んだ。病院でエイズ患者と手を取り、戦地では地雷被害者に寄り添い、社会の片隅に追いやられた人々と向き合った。彼女の行動は、単なる慈善活動ではなかった。世界に対する挑戦であり、心からの叫びだった。
そして、そのわずか8か月後。1997年8月31日未明、パリのアルマ橋トンネルでの悲劇。ダイアナ・スペンサーは、36年という短い人生に幕を閉じた。だが、彼女の歩みは、止まることはなかった。
これは、ひとりの少女が王妃となり、そして伝説へと変わるまでの物語である。
名家に生まれた少女
1961年7月1日、ダイアナ・フランセス・スペンサーはイギリスの名門、スペンサー伯爵家に生まれた。代々王室と深い関わりを持つこの家系は、格式高く、富と権威に恵まれていた。しかし、彼女の幼少期は決して幸福に満ちたものではなかった。
両親の関係は冷え切っており、ダイアナが6歳のときに別居、8歳のときには正式に離婚が成立した。幼い彼女にとって、この出来事は耐えがたいほどの喪失感を伴うものだった。親権は父ジョン・スペンサーに渡ったが、母を失った家は彼女にとって決して安心できる場所ではなかった。
「私はとても不幸な子ども時代を過ごしました」
後年、ダイアナはそう語っている。父の怒号が響く中、母が泣き崩れる姿を目にした幼い日々。彼女は、父の暴力を目の当たりにしながら、恐怖と孤独の中で成長した。姉たちはすでに寄宿学校に通っており、ダイアナは家の中で孤独を抱えながら、ナニー(乳母)と過ごす時間が長かった。
9歳になると、彼女も姉たちにならい、寄宿学校「ウエスト・ヒース・ガールズ・スクール」に入学した。しかし、学業にはあまり興味を持てず、成績も振るわなかった。周囲の期待に応えることができず、実家に戻ると姉たちと比較され、肩身の狭い思いをしたという。
「父から一度も『愛してる』と言われたことがありません。家族にはいつも、『あなたがいちばんバカな子』と言われていました」
しかし、彼女には別の才能があった。スポーツや音楽においては抜群のセンスを発揮し、特にバレエには強い情熱を注いだ。彼女はロイヤル・バレエ団のバレリーナを夢見て努力を続けたが、10代後半に身長が180cm近くまで伸びたことで、その夢を断念せざるを得なかった。
夢を失い、愛を求めても応えてくれる家族はなく、学校でも目立つ存在ではなかった。それでも、彼女はどこかで自分の価値を証明したいと願っていた。家庭でも学校でも、心から受け入れられたと感じることのなかった少女は、やがて世界中の人々から愛される存在へと変わっていく。
それは、彼女自身が誰よりも「愛されることの大切さ」を知っていたからこそ成し遂げられたことだった。
運命の出会い、そして王妃へ
1977年、16歳のダイアナは、当時29歳だったチャールズ皇太子と初めて出会った。しかし、このときチャールズが心を寄せていたのはダイアナではなく、彼女の姉サラだった。彼女はただの「妹」として見られており、特別な感情を抱かれることはなかった。
しかし、運命はゆっくりと、しかし確実に動き出していた。数年後の1979年、ダイアナとチャールズは再会する。まだ10代の彼女は、以前よりも成熟し、その純粋さと親しみやすさでチャールズの心を引き寄せた。そして1980年、二人の関係は急速に深まり、王室内外で「未来の王妃」として注目されるようになった。
翌年2月、チャールズはウィンザー城でダイアナにプロポーズした。ダイアナにとって、それはまるでおとぎ話のような瞬間だった。しかし、内心では不安も募っていた。
「私は大きな役割を果たしていることに気づいていましたが、何が起こっているのか分かりませんでした」
1981年7月29日、セント・ポール大聖堂で執り行われた結婚式は「世紀の結婚」と称され、世界中がその華やかさに魅了された。ダイアナの純白のウェディングドレス、25フィート(約7.6メートル)にも及ぶ長大なトレーン、そして緊張と期待が入り混じった彼女の表情――すべてが歴史に刻まれる瞬間だった。
しかし、その美しさの裏で、ダイアナの心には不安が渦巻いていた。彼女は王室という新しい世界に飛び込み、国民の視線を一身に浴びながらも、自分がどこに向かうのか分からなかった。そして結婚生活が始まるとすぐに、彼女は現実の厳しさを思い知らされることになる。
新しい生活に馴染もうと努力するダイアナだったが、王室の厳格な伝統、夫の冷淡さ、そしてパパラッチによる執拗な追跡に次第に追い詰められていった。
母としての幸福、そして夫との溝
1982年、ダイアナは長男ウィリアム王子を出産した。このとき初めて、彼女は本当の意味での幸福を感じた。母であること――それは、彼女がこれまで求めてきた「無償の愛」に最も近いものだった。王室のしきたりに縛られる生活の中で、唯一心から安らげる存在がウィリアムだった。そして2年後の1984年には次男ヘンリー王子が誕生し、彼女の愛情はさらに深まっていった。
「子どもたちのためなら、私は何でもする」
ダイアナは母として、これまでの王族とは異なる方法で子育てをした。王室の伝統では、子どもは乳母や家庭教師に任せることが多かったが、彼女は自ら育児に積極的に関わり、息子たちを普通の子どものように育てようとした。遊園地に連れて行き、学校の送り迎えをし、ハグやキスを惜しみなく与える――それは王族の母としては異例のことだった。しかし、彼女にとっては当然のことだった。
しかし、母としての幸福とは裏腹に、夫婦の関係は冷え切っていった。チャールズは結婚前から長年の恋人カミラ・パーカー・ボウルズとの関係を続けており、それは結婚後も変わらなかった。ダイアナはそれを知りながらも、表向きは微笑みを絶やさずに耐えなければならなかった。
「不倫をやめて欲しいと懇願すると、彼は『英国史上初の愛人を持たない王位継承者にはなりたくない』と冷たく言い放った」
その言葉は、彼女の心を深く傷つけた。愛を求めても得られない。努力しても報われない。やがて彼女は摂食障害に苦しみ、自傷行為を繰り返すようになった。公の場では微笑みながらも、内面では絶望と孤独に苛まれていた。
結婚生活の破綻は時間の問題だった。そして1992年、夫妻は別居を発表。王室内の軋轢、メディアの過熱報道、そしてお互いの心の距離は、もはや修復不可能なものとなっていた。
1996年、正式に離婚が成立。ダイアナは「ウェールズ公妃」の称号を失ったが、同時に自由を手に入れた。彼女は「ダイアナ・スペンサー」として新たな道を歩み始め、王室に縛られることなく、心の赴くままに生きることを決意した。
彼女が本当に輝くのは、この離婚の先にある新しい人生だった。
人道活動への情熱
王室を離れ、自由を得たダイアナは、かねてから関心を寄せていた人道支援活動に本格的に取り組むようになった。王族としての義務から解放されたことで、彼女はより自分の意志で行動し、社会のために何ができるかを考え続けた。特に彼女が注力したのは、社会的偏見や無関心の中で苦しむ人々への支援だった。
エイズ患者への差別が根強かった当時、彼女は偏見を払拭するために病院を訪れ、患者たちと直接触れ合うことを選んだ。防護手袋も着けず、彼らと握手を交わし、優しく抱きしめる――その姿は、多くの人々に衝撃を与えた。
「HIVは握手では感染しません。私は恐れません」
この言葉は、エイズ患者だけでなく、世界中の人々の心を揺さぶった。彼女の行動は、患者たちに人間としての尊厳を取り戻させただけでなく、社会全体の意識を変える大きな一歩となった。
また、彼女は地雷被害者の支援にも積極的に関わった。地雷撤去活動を支援するため、アンゴラやボスニアを訪れ、地雷が埋まる危険な土地を自ら歩いた。その姿は、「プリンセス」のイメージを覆し、勇気ある人道支援者としての彼女を世界に知らしめることになる。
「地雷は、戦争が終わった後も人々を殺し続ける」
彼女の訴えは、世界中の地雷廃絶運動を後押しし、後に「オタワ条約」の締結にも大きく貢献することになる。王室に属していたときよりも、彼女は自由な立場で世界に影響を与え、人々のために生きることを選んだのだった。
愛と別れ、そして悲劇の夜
王室を離れたダイアナは、新たな人生を求める中で、愛もまた探し続けていた。彼女が本当に愛したとされるのは、パキスタン人の心臓外科医ハスナット・カーンだった。医師としての使命を全うするカーンの誠実な人柄に惹かれ、彼との関係は2年近く続いた。しかし、彼の家族が彼女との結婚を許さず、ふたりは別れることとなった。
失恋の傷を抱えながらも、彼女は新しい人生を歩もうとした。そして1997年、エジプト人富豪モハメド・アルファイドの息子、ドディ・アルファイドとの交際が始まった。彼との関係は世間の注目を浴び、パパラッチたちは二人を追い続けた。
1997年8月30日、ダイアナとドディはパリのリッツ・ホテルに滞在していた。その夜、メディアの執拗な追跡を避けるため、ふたりは深夜に裏口からホテルを出発した。運転を担当していたのはホテルのセキュリティ責任者であり、彼は猛スピードで車を走らせた。しかし、アルマ橋のトンネルに入った瞬間、車は制御を失い、中央分離帯に激突――瞬く間に大破した。
ドディと運転手は即死。ダイアナも重傷を負い、病院へ搬送されたが、1997年8月31日午前4時、帰らぬ人となった。36歳の若さだった。
彼女の死は、世界中に衝撃を与えた。ロンドンでは人々が花を手に集まり、ケンジントン宮殿の前には無数の献花が積み上げられた。9月6日に行われた葬儀には数百万人が参列し、世界中のテレビ視聴者数は25億人にも達した。エルトン・ジョンが彼女を悼んで「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」を歌い、涙する人々の姿が世界に広がった。
彼女は、ただの王妃ではなかった。彼女は「心のプリンセス」として、最後の瞬間まで人々の心に寄り添い続けたのだった。
Book
漫画:

自伝・伝記:
おすすめの本:

参考文献:
Diana, Princess of Wales – Wikipedia
ダイアナ妃 (だいあなひ)とは【ピクシブ百科事典】
ダイアナ妃が極秘取材で語った、その生涯とは。|Culture|madameFIGARO.jp(フィガロジャポン)