人間であるということは、
責任を持つということだ
空とペンが紡いだ人生の物語
サン=テグジュペリ
の生涯
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリという名前を聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのは『星の王子さま』だろう。この童話の優しい言葉や、シンプルでありながら深遠な哲学に触れた読者は、彼の描く世界観に心を奪われる。しかし、サン=テグジュペリの人生は単なる文学の世界にとどまらない。彼は、空の冒険家として、命を懸けて未知の領域に挑み続けた。そして、その体験が彼の作品に独特の深みと輝きを与えている。
貴族の家系に生まれた夢見る少年
1900年6月29日、フランス・リヨンに生まれたサン=テグジュペリは、名門貴族の家系に生まれた。幼い頃から裕福な環境に育ち、芸術と文化に囲まれた生活を送る。しかし、4歳のときに父を亡くし、彼の家庭は早くも試練に直面することになる。
それでも、母親アン・ド・サン=テグジュペリは強く、そして愛情深く子どもたちを育てた。彼女は絵画に情熱を持つ感受性豊かな女性であり、その芸術的な感覚と人間に対する深い愛情は、幼いアントワーヌに強い影響を与えることになる。
子ども時代の彼は夢見がちな性格で、物語や詩に親しみながら空への憧れを膨らませていたようだ。特に彼の記憶に残っているのは、12歳のときに体験した飛行機との出会いであった。ある日、地元の飛行場で偶然パイロットに頼み込み、人生初の飛行体験をしたのだ。風を切る感覚。空から見下ろす世界の美しさ。そういったことに心を奪われた少年の胸には、このとき、確かな夢の種が植えられたのだ。
空への憧れと運命の出会い
青年期のサン=テグジュペリは、海軍兵学校への入学を目指すものの、試験に失敗する。この挫折は彼にとって大きな痛手だったが、彼はすぐに別の道を模索することになる。美術学校で建築を学び、芸術の感性を磨きながらも、彼の心は常に空を飛ぶことへの情熱に引き寄せられていた。
1921年、兵役のために空軍に入隊。ここで彼は本格的に飛行訓練を受け、操縦士としての第一歩を踏み出す。訓練の中で彼は、空という過酷な環境が与える恐怖と、それを乗り越える勇気、そしてそこに広がる自由の美しさを学んでいく。
除隊後、しばらくの間、彼は安定した職業に就くことができず、工場勤務や営業職などに従事した。しかし、その生活の中でも彼はペンを手放すことはなかった。やがて、彼の才能は文学界でも認められるようになり、1926年にラテコエール航空会社に入社する。ここで彼は、航空郵便のパイロットとして新たな挑戦を始めることになった。
空の孤独と試練、そして命を賭けた挑戦
サン=テグジュペリにとって、空を飛ぶことは単なる職業ではなかった。それは、人間が自然と向き合い、極限の状況下で自らの存在を試される場であった。彼が経験した空の旅は、決して安全で快適なものではなかった。悪天候。エンジントラブル。航路の未開拓地帯。数々の危険が常に彼を取り囲んでいたのだ。
1927年、彼はモーリタニアのキャップ・ジュビーで飛行場長として赴任する。砂漠の真ん中で過ごしたこの18か月間、孤独と静寂の中で彼の内面は大きく変化した。大地と空に囲まれたこの過酷な環境で、彼は自然の偉大さと、人間の小ささ、そして生きることの意味について深く考えるようになったと言われている。
この経験は、彼の初の長編小説『南方郵便機』に結実する。未知の美を夢見る飛行士の内面を描いたこの作品は、彼が空で感じた孤独や責任、そして挑戦することの意義を文学として表現したものであり、文学界から高い評価を受けることとなる。
作家としての成功と空での試練
1929年、サン=テグジュペリは南米に渡り、ブエノスアイレスで航空路線の開拓に従事する。この地でも彼は多くの冒険を経験し、アンデス山脈を越える危険な飛行任務に挑んだ。ここでの体験は、彼の代表作のひとつである『夜間飛行』に反映される。夜の闇と孤独、命の危険を背負いながら郵便を届ける飛行士たちの勇気と責任感を描いたこの作品は、フェミナ賞を受賞し、彼の名を不動のものとした。
しかし、彼の人生は決して順風満帆というわけではなかった。飛行機の事故による重傷、婚約者ルイーズ・ド・ヴィルモランとの破局、そして航空会社の経営破綻による職の喪失といった数々の試練が彼を襲う。彼は一時的にジャーナリストやテストパイロットとして生計を立てるが、空への情熱と文学への愛情は、決して彼の心から消えることはなかった。
1939年、彼は『人間の土地』を発表。この作品は、彼自身の飛行体験を通じて得た人生観や人間性への深い洞察を描いたものであり、アカデミー・フランセーズの小説大賞を受賞する。
戦争と空への最後の挑戦
第二次世界大戦が勃発すると、サン=テグジュペリは、再び祖国フランスのために空へと舞い上がる決意を固めた。すでに40歳を迎え、かつての若さや体力は衰え始めていたが、彼にとって戦争はただの戦いではなかった。これは、人間の尊厳と自由を守るための行動であり、彼の文学と人生哲学の実践そのものだった。
彼はフランス空軍の偵察飛行隊に志願し、極めて危険な任務に就くことになる。偵察飛行とは、敵の陣地や動きを把握するため、最前線を飛び越え、敵地の上空を飛び写真を撮影する使命であった。戦闘機の護衛もなく、単独で敵地に侵入するこの任務は、最も過酷で命の危険が高いものとされていた。しかし、サン=テグジュペリはその危険を恐れることなく、あえて命を懸けて空へと向かったのだ。
この戦時中の活動を通じて、彼の文学的信念である「行動することの意味」が強く表れた。彼はただ理想を語るだけでなく、自ら命を賭けてその理念を体現したのだった。その勇敢な姿勢と献身は、周囲の尊敬を集め、クロワ・ド・ゲール勲章(戦功十字章)を授与されるに至った。この勲章は、フランス軍における特筆すべき勇敢な行為に対して授けられる名誉ある賞であった。
しかし、1940年、フランスはナチス・ドイツによって占領され、国全体が大きな試練に直面することになる。サン=テグジュペリは、フランスの敗北と占領に深い悲しみと失望を覚えつつ、亡命を決意。彼は妻と共にニューヨークへ渡り、異国の地で新たな戦いに挑むこととなった。祖国を遠く離れた彼の心には、故郷への深い愛と、自由を奪われたフランスへの憂慮が絶えず渦巻いていた。
ニューヨークでの生活は、彼にとって戦場とは異なる戦いの場だった。彼はペンを武器に、言葉でフランスの名誉と人類の未来を守ろうとした。ここで生まれたのが『戦う操縦士』だった。この作品は、彼が実際に体験した偵察飛行の任務を基にしており、戦争の不条理さとフランス兵士たちの勇敢な抵抗を描いている。戦火に包まれたフランスの悲劇をリアルに描くことで、アメリカの世論を動かし、連合国への支援を呼びかけることを目的としていた。この作品はアメリカでベストセラーとなり、世界中の読者に戦争の現実とフランスの苦境を伝えることに成功した。
しかし、サン=テグジュペリの最も象徴的な作品となったのは、1943年に出版された『星の王子さま』だった。この物語は、表向きは子ども向けの童話として語られるが、その奥底には深い哲学と人生の真理が隠されている。孤独、友情、愛、責任といった普遍的なテーマを織り交ぜながら、シンプルな言葉で読者の心に訴えかける。特に「大切なものは目に見えない」というメッセージは、戦争によって破壊された人間性への警鐘として、世界中で共感を呼んだ。孤独と葛藤の中で生み出されたこの作品は、彼自身の心の叫びでもあり、彼が見つめ続けた「人間の本質」を象徴するものだった。
その後、彼の心は再び空へと向かう。彼にとって、空を飛ぶことは単なる職業でも趣味でもなかった。それは彼の存在意義であり、生きることそのものだった。1943年、彼は再び戦地に戻る決意を固める。北アフリカの連合軍偵察飛行隊に参加し、フランス本土の解放に向けた作戦に加わる。
しかし、この時の彼の身体は、若い頃のように自由には動かなかった。過去の飛行機事故による怪我の後遺症が彼を苦しめ、特に首や背中の痛みが彼の日常生活にも影を落としていた。それでも彼は諦めなかった。医師や友人たちの反対を押し切り、再び空へ舞い上がることを選んだのだ。サン=テグジュペリにとって、空にいることこそが、人生における最も純粋な自由の瞬間だった。
最後の飛行と、その後の影響
1944年7月31日、サン=テグジュペリは偵察飛行に出発し、そのまま帰還することはなかった。彼の乗ったロッキードP-38ライトニングは消息を絶ち、彼の遺体も長らく見つからなかった。彼の最期については多くの謎が残されているが、その死が英雄的なものであったことは疑いようがない。
Book
漫画:

自伝・伝記:

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参考文献:
Antoine de Saint-Exupéry — Wikipédia
Antoine de Saint Exupéry
サンテグジュペリ(さんてぐじゅぺり)とは? 意味や使い方 – コトバンク
サン・テグジュペリ|集英社世界文学大事典・岩波 世界人名大辞典・世界大百科事典|ジャパンナレッジ
サン=テグジュペリ 星の王子