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鲁迅

絶望の虚妄なること
まさに希望に相同じい

中国近代文学の生みの親

魯迅
の生涯

映写機からの映し出された一枚が、進路を折り曲げた

薄暗い教室。映写機の光が壁に揺れ、そこに映ったのは、処刑されようとする中国人と、それを“見物”する同胞の群れだった――。魯迅はのちに、あの瞬間から「医学などは肝要でない」と思うようになったと書く。肉体を救う以前に、精神を改造しなければならない。では、精神を変える道具は何か。彼の答えは、文芸だった。

医者になるために日本へ渡った青年は、なぜ「言葉」で闘う作家になったのか。彼は何を憎み、何に希望を託し、どんな孤独を抱えたのか。魯迅の生涯は、近代中国が背負った痛みを、個人の神経にまで落とし込んだ闘いの記録である。

没落した士大夫の家に生まれ、早く“世の顔”を知る

魯迅は1881年9月25日、浙江省紹興府の士大夫の家系に生まれた。本名は周樹人。幼いころは裕福だったが、祖父が科挙の不正事件を起こし家は没落する。祖父の事件と家道の衰え、父の病没などが重なり、家庭の変転が魯迅に深い影響を与えた。

この経験は単なる「苦労話」に収まらない。魯迅自身「小康の家から困頓(こんとん)へ墜ちる途中で世の真面目が見える」といった趣旨の言葉を後年残している。上品な学問の家の看板が崩れ、暮らしの手触りが変わる。子どもの目に映る“礼”と“現実”のずれが、早い段階で心に刺さったのだろう。

彼は10歳で私塾に学び、進化論や新思想の書、翻訳小説に惹かれたともされる。古い教育を受けながら、新しい世界の匂いを嗅ぎ取る。その二重の空気が、のちの鋭い批判精神の下地になった。

南京で出会った新思想、そして「外国へ」という衝動

1898年、魯迅は南京の江南水師学堂に入学するが、内容に不満を抱いて退学し、江南陸師学堂付設の鉱務鉄路学堂へ移る。ここで厳復訳の『天演論』などを読み、新しい思想に触れることになった。学ぶものが古典だけではなくなり、世界の見取り図が更新される時期だった。

1902年、国費留学生として日本へ渡る。彼の中には「ここでは何も掴めない」という焦りと、「外へ出なければ視界が開けない」という確信が同居していたように見える。鉱山・地質を学び、ドイツ語を身につけ、論文を書き、翻訳も試みる。専門の輪郭を広げるほど、逆に「自分は何者になるのか」という問いが自信を突き上げていた。

仙台の階段教室、朱筆のノート、そして“あの映像”

1904年、魯迅は仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)に入学し、最初の中国人留学生となった。学校側は無試験・学費免除で遇し、解剖学の藤野厳九郎教授は丁寧に指導した。魯迅のノートには朱筆の添削がびっしり入っていたとされ、後年の作品『藤野先生』には、その感激が濃密に刻まれている。

彼は日本留学中、ニーチェ、ダーウィンだけでなく、ゴーゴリ、チェーホフ、アンドレーエフなどロシア文学を読み、決定的な影響を受けた。さらにヴェルヌの科学小説『月界旅行』『地底旅行』の翻訳も行っている。医学と文学・哲学へ学習の欲求が同時に強くなった時期であった。

そして、転機が来る。医学校の講義で、日露戦争に関する幻灯の時事画を見せられた。そこには、中国人がスパイとして処刑されようとする場面と、それを好奇心で眺める同胞の姿があった――と魯迅は回想し、『吶喊』の「自序」に次の趣旨を書く。愚弱な国民は体格がよくても、見せしめの材料か見物人になるだけだ。最初の任務は精神の改造であり、それに役立つのは文芸だ、と。

ただしこの「幻灯」については、フィクションである可能性を指摘する研究もあり、発見されたガラス絵スライドには該当の場面がなかったという人もいる。一方で、ニュース映画で銃殺場面を見たという証言、当時の戦争実記に処刑写真があった答える人もいる。つまるところ、細部の史実が揺れても、重要なのは魯迅が「自分は文学へ行く」と決め、その決断を象徴する出来事として語り継がれている事実である。

ここで彼は、医学を半ばで退学する。救う対象を身体から精神へ移し替えたのだ。

東京での挫折と、孤独の帰国

退学後の魯迅は東京で出版事業を試み、ダーウィンの進化論やニーチェの哲学を啓蒙する狙いで散文を書いた。それらはのちに『墳』に収められる。雑誌『新生』の企画は未成に終わるが、発表予定だった内容は『河南』に「文化偏至論」「マラ詩力説」「破悪声論」などとして掲載された。周作人が編集した『域外小説集』のために外国小説を翻訳するが、売れ行きは伸びず各巻20冊ほどだったという。

1909年、彼は帰国する。残念ながら7年間の日本留学の間、日本人の親友は一人もできなかったと伝えらている。辛うじて尊敬した教師が藤野先生だった、と。異国で得たものが大きいほど、孤独もまた深った。民族や国家の大原則に関わる問題が生じれば必ず中国側に立った、とも言われている。彼にとって日本は学びの場であり、同時に、祖国の屈辱と近代の残酷さを突きつける鏡であった。

北京で“隠遁”し、やがて文学革命に火がつく

帰国後、魯迅は杭州と紹興の中学校で教え、1911年に辛亥革命を迎える。1912年に中華民国政府が成立すると教育部の事務官として北京へ移り住んだ。最初の数年間は西洋美術・版画の啓蒙を推進しつつ、典籍研究に没頭し、隠遁者を演じていた。というのも、軍閥が主導権を争う政治の混乱に失望していたからだ。

しかし「文学への野望」は消えることはなかった。文学革命が再び彼を呼び戻すことになる。

1918年5月、銭玄同の要望を受け、『新青年』に『狂人日記』を発表。『新青年』は「民主と科学」を掲げる雑誌で、文学革命の中核だった。『狂人日記』は、表では礼節を説く儒教が裏では生命の抑圧者として人を食ってきた、と告発し、「真の人間」になることを説いた。礼の言葉が人を縛り、食い潰す。彼の批判は道徳そのものではなく、道徳が権力の仮面になる瞬間へ向けられていた。

1919年には『孔乙己』『薬』を寄稿。『狂人日記』が衝撃を与えた一方で、文体・構成の成熟という点では『孔乙己』『薬』が優れ、実質的なデビュー作と位置づけられるている。彼は「語り」のモデルを試し、読者(知識人層)へ責任と認識の問いを突きつけた。鋭さは相手だけでなく、読む側の胸へも向かった。

阿Qという鏡――国民性の痛点を、笑いに結晶させる

1921年、代表作『阿Q正伝』を発表する。章回小説の形式を一見踏襲しながら、国民性の中に潜む卑怯、惰弱、軽率を阿Qという形象に結晶させた作品だ。阿Qは「悪人」ではない。どこにでもいる、だからこそ笑える。しかし笑った瞬間に、笑いが読者へ返ってくる。魯迅の文学は読者の安全地帯を許さないものであった。

創作の最盛期は、第一集『吶喊』と第二集『彷徨』、散文詩集『野草』の時期に重なる。北京在住時代に創作力が充実し、短編小説や散文詩を次々に書いている。彼の文章は、ときに刃物のように薄く、ときに暗い湿度を帯びる。だが根は一つで、見て見ぬふりをしない視線である。

教壇と論争のあいだで――北京の亀裂が走り出す

1920年秋から1926年夏まで、北京大学や北京女子師範学校で講師を務め『中国小説史略』を講じる一方で作品を発表し続ける。だが1925年、北京女子師範大学で学園紛争が起こり、学生処分に反対する魯迅は処分派と大論争を展開し、教育部員を罷免されてしまう。のちに平政院に提訴して勝利も得ることにが、ここから彼は雑文、つまり論争文に力を注ぐようになった。

魯迅の雑文はただの政治評論ではない。現場の泥と怒りとユーモアが混ざり、読者をたきつけていく。古典研究や小説の「大成」の道を捨て、論争の現場へ身を委ねていった。安全な書斎ではなく、矢が飛ぶ場所で言葉を磨いていったのだ。その選択が、彼を“戦う作家”にした。

3.18事件――銃声が、北京を追い出す

1926年3月「3.18事件」が起きる。学生・市民への発砲で47名が死亡したこの事件について、魯迅は政府を激しく批判した。軍閥政府は魯迅を含む50数名を指名手配者としてリストアップし、彼は日本人やドイツ人が経営する病院へ潜伏せざるを得なくなる。言葉の闘いは、命の危険と隣り合わせであった。

避難生活は5月に終わるが、8月には北京を離れ、厦門大学の教授として福建へ移る。居心地は良くなく、翌1927年1月には広州へ。中山大学で主任職に就くが、反共クーデターのさなか学生が逮捕・虐殺される中、抗議として職を辞している。彼は体制の側に寄りかかれない。寄りかかれば、言葉が死ぬと思っていたのだろう。

上海へ――フリーの文学者として生きる覚悟

1927年、許広平とともに汽船で広州を脱出し、10月3日に上海へ着く。1929年、長男が生まれ「海嬰」と名付けた。上海時代の魯迅は教職に就かず、フリーの文学者・思想家・論争家として生きることを選ぶ。毒舌的レトリックで雑文を矢継ぎ早に発表し、国民党政府の弾圧、御用文人、さらには革命陣営内部のセクト主義や極左主義とも論争した。

左翼からの批判も浴びた。創造社・太陽社からは「過去の暗黒しか見ない」といった趣旨で攻撃されるが、魯迅は彼らの安易さを突き「革命文学論戦」を展開する。彼は味方に甘くない。革命の名を借りた軽薄さを最も嫌ったのだ。

一方で、上海の近代的市民社会と大衆文化の黎明期のなか、魯迅は家族で映画館へ通い、当時流行のハリウッド映画を多く観ていた。私生活はゴシップにもされた。妻を北京の母の下に置き、17歳年下の教え子と同棲する魯迅像が国民党系メディアに流されたこともある。闘う者は政治だけでなく私生活でも標的になっていた。

木版画という「増殖する刃」――一枚の版木から百枚の言葉へ

上海時代の魯迅は外国美術の翻訳・復刻・評論にも力を注ぐ。内山書店を通じて美術書が入手しやすくなったことが背景にあった。1931年には木版画講習会を開き、若い木版作家の養成に携わり、木版芸術の「民衆性」に着目する。廉価な費用で一枚の版木から百枚以上刷れる版画は、民衆のための優れた芸術手段であり、革命の武器にもなりうる――この発想は、彼が文学に求めた役割と響きあった。

言葉は雑誌で弾圧され、作品は発禁になりうる。だが版画は、複製され、手から手へ渡る。魯迅が木刻に託したのは、表現の形式ではなく届き方だったのかもしれない。精神の改造を目指すなら、改造の回路は一本では足りなかったのだ。

「漢字が滅びなければ、中国が必ず滅びる」――言葉の器への苛烈な診断

魯迅は国民精神の改造を生涯の課題とした作家であり、漢字について極端にも聞こえる断言を残している。「漢字が滅びなければ、中国が必ず滅びる」。その理由として、四角い字が多数の人々を長く文盲に縛り、時代が進んでも迷信的な行為が残る、といった趣旨を述べている。

ここには伝統への単純な憎悪だけがあるのではない。文字は文化の誇りであり、同時に教育の障壁にもなる。魯迅は誇りの側に安住せず、障壁の側へかなり偏った考えを述べる。そこに彼の苛烈さがあった。優しさより先に、手術のような強硬な手段を選ぶ性格が垣間見える。

最期の数週間――遺言と、笑いの一枚

魯迅は1936年10月19日、上海で死去する。資料によって死因の記述は揺れ、喘息発作で急逝とするものがある一方、肺結核や肺気腫が誘因となった重い呼吸器症状(気胸)を真因とみる説明もある。共通するのは、持病を抱えたまま、抗日統一戦線をめぐる論戦のさなかに倒れた点である。

葬儀は直ちに全中国へ報じられ、その日のうちに宋慶齢の参加を得て葬儀委員会の名簿が作成された。蔡元培、宋慶齢、毛沢東、内山完造、アグネス・スメドレー、茅盾らの名が挙がり、出棺では巴金、胡風ら青年作家が棺を担い、万国公墓に葬られた。1956年には魯迅旧居近くの虹口公園(魯迅公園)に改葬された。

1936年10月8日に撮影された「唯一大笑いの写真」というのがある。最期の十一日前、普段はあまり笑わない作家が、珍しく笑っている。あの笑いは何だったのか。勝利の予感か、皮肉か、あるいは「まだ終わらない」という照れ隠しか。断言はできない。ただ、闘い続けた人の顔に、一瞬だけ別の光が差したことは確かだ。

死後の“神話化”と、それでも消えない鋭さ

魯迅の死後まもなく20巻の『魯迅全集』が出版さた。同時に中国共産党による“文化的英雄”としての位置づけ、利用、神話化もされていった。毛沢東は延安での追悼集会で魯迅を「第一等の聖人」とみなすべきだと講演したという。魯迅が国民党を批判し、帝国主義に抵抗しつつ近代文化を主体的に受容しようとした点が、革命の聖人像へ接続されたのだ。

だが魯迅の価値は、誰かの看板になったことではない。むしろ看板を疑い、言葉の裏へ回り込み、そこに潜む暴力を暴いたことにある。彼は小説家であり、翻訳家であり、雑文家であり、思想家であり、時に美術の編集者でもあった。生涯に小説集3冊、雑文集17冊、散文詩集1冊、回想記1冊を刊行し、研究書や論文、膨大な翻訳も残した。圧倒的な量は雑文であり、とりわけ上海時代に集中している。

彼の作品は中国だけでなく東アジアでも広く読まれ、日本では中学校国語教科書に「故郷」が収録されている。国境を越えて読まれるのは、批判が相手だけに向いていないからだ。読む者自身の中の阿Q、読む者自身の中の「見物人」を、そっと照らしてしまうからだろう。

仙台に残る椅子、朱筆の痕――いまも続く往復運動

魯迅が幻灯を見たとされる建物「仙台医専六号教室」は移築され、2025年現在も実在し「魯迅の階段教室」として写真が掲げられているという。彼が「中央のブロック、前から3列目の真ん中あたりにいつも座っていた」とされ、江沢民も着席したと伝えられている。東北大学史料館には魯迅記念展示室があり、仙台市内には魯迅像や碑、旧居跡碑、公園整備などが点在する。

面白いのは、記念の中心にあるのが英雄の銅像だけではなく、椅子や階段教室といった、学びの痕跡だという点だ。魯迅は日本で親友を得なかったとされる一方、藤野厳九郎との関係だけは作品として残し、死後も往復運動を生んだ。

結び――彼が最後まで捨てなかったもの

魯迅の人生を一本の糸で貫くなら、「精神の改造」という課題になる。ただしそれは、説教で人を変える話ではない。むしろ「仁義道徳」の字面の隙間から読者の中にある見物人を目覚めさせ、笑いの中に痛みを混ぜ、痛みの中に行動の余地を残す。

医者になるはずだった青年が、文学へ転じた。その選択は、栄光ではなく、屈辱の映像から始まったと語られる。屈辱を直視すること。直視したうえで、同胞を見下さず、しかし甘やかさない。魯迅が最期まで捨てなかったのは、その不器用な誠実さであった。

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2026-02-27
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