大したことをしたわけではない。
当然のことをしただけです。
人道の光が照らす軌跡
杉原千畝
の生涯
命のビザと呼ばれる勇敢な行動により、杉原千畝の名前は歴史に深く刻まれている。彼が発給した数千枚のビザは、ナチスの迫害から逃れようとする多くのユダヤ人の命を救うこととなった。彼の行動は単なる英雄的な逸話ではない。葛藤と決断の中で紡がれた、人道と使命に向き合う生き方そのものだった。
転々とした日々が育んだ感受性
1900年、岐阜県美濃市に生まれた杉原千畝は、税務官吏の父・好水と母・やつのもとで育った。幼少期は父の仕事の関係で各地を転々とし、福井や三重、名古屋といったさまざまな土地で生活した。この移動の多い幼少期は、千畝にとって新しい環境に順応する力と、多様な文化への感受性を育むきっかけとなった。
名古屋では学業に秀でた少年として知られ、すべての科目で優れた成績を収めた。旧制愛知県立第五中学校(現在の瑞陵高等学校)に進学すると、知的好奇心と冒険心がさらに養われた。特に語学や国際情勢への関心が芽生え、学問に対する探究心を深めていった。
しかし、父親は千畝に医師の道を期待していたという。しかも、安定した職業とされる医師の道は、当時の社会でも高く評価されていた。しかし彼は、父の期待に反して医学の道を拒み、あえて自らの道を選び取る。この決断は、周囲の反対を押し切る強い意志の表れであり、後に彼が命がけで人道的行動を選択するうえでの原点となったという。この早稲田大学の英語科へ進学する決断は、親の期待を裏切るものであったが、千畝にとっては「自分の意思で人生を切り開く」という強い信念の証だった。大学では言語への興味をさらに深め、世界への視野を広げる学びを重ねていくことになる。
外務省留学生試験との出会い
大学時代、経済的に困窮していた千畝は、学業への情熱を胸に抱きながらも、現実の厳しさに直面していた。生活費を確保するために、授業の合間や深夜にまで及ぶアルバイトに明け暮れる。身体的にも精神的にも過酷な状況の中で、それでも彼は決して学びを諦めることはなかった。この困難な時期に培われた粘り強さと自己犠牲の精神は、後の彼の人生を支える礎となった。
そんな折、運命の転機ともいえる出来事が訪れる。偶然目にした「外務省留学生試験」の告知が、彼の将来に新たな可能性をもたらした。この試験が、単に経済的安定を得るための手段であるだけでなく、未知の世界への扉を開くきっかけになると直感した千畝は、挑戦を決意する。
とはいえ、図書館での独学は彼にとって試練の連続だった。膨大な書物に囲まれ、時間も資源も限られた中での勉強は並大抵の努力では成し得ないものだったからだ。それでも、彼は一度も足を止めることなく知識を吸収し続けた。その粘り強さと探究心は、試験に合格するという成果となって結実する。
合格後、彼はロシア語の習得に全力を注ぎ、ハルビン学院での留学生活が始まる。そこで待ち受けていたのは、語学の枠を超えた知識の世界だった。国際政治やソ連の動向、さらに世界が抱える複雑な問題に対する深い理解を得ることで、彼の視野は一気に広がる。
その後、満洲国外交部に勤務した千畝は、ロシア問題の専門家としてその名を高めていく。特に、北満洲鉄道譲渡交渉では、卓越した交渉力と冷静な分析力を発揮し、ソ連との複雑な交渉を成功に導いた。この成果により、日本政府から高い評価を受けることになる。
しかし、その一方で、当時の軍国主義的な日本の姿勢に対しては、次第に疑念と違和感を抱くようになったと言われている。国家の名のもとに押し付けられる権威やイデオロギー。そういったことに批判的な視点を持ち始めたようだ。
カウナスでの決断
1939年、第二次世界大戦の勃発とともに、杉原はリトアニアのカウナスに日本領事館を開設し、領事代理として赴任した。そこで、彼は運命的な試練に直面することになる。
ナチス・ドイツとソ連によるポーランド侵攻の後、多くのユダヤ人難民がカウナスに押し寄せ、逃亡の手段としてビザを求めるようになったのだ。これに対し当時の日本政府の方針は明確で、正式な渡航許可がなければビザを発給してはならないというものだった。
しかし、目の前にいるのは迫害と死の恐怖に怯える人々だった。彼は深い苦悩の末、「人として、命を救うべきだ」という信念に従う決断を下す。外務省の命令に背いてまでビザを発給するという選択は、彼の人生における最大の賭けとなった。
カウナスでの約1か月間、彼は昼夜を問わずビザを書き続けた。痛む腕を妻がマッサージし、ペンが折れるまで書き続ける姿は、使命感と人間愛に満ちていた。その結果、少なくとも2,000枚以上のビザが発給され、数千人の命が救われたとされる。
しかし、ソ連の圧力によって日本領事館の閉鎖が決定され、杉原はカウナスを離れなければならなくなった。その出発の日、駅のプラットフォームに向かう彼のもとには、ビザによって命を救われた人々が集まり、涙を流しながら感謝の言葉を送り続けたという。列車が発車する直前まで、彼は最後の瞬間までペンを走らせ、窓越しにビザを渡し続けた。その姿は、まさに「最後の一人を救うまで諦めない」という彼の信念を象徴しているようであった。
日本に帰国後、杉原は外務省から冷遇され、最終的に退官を余儀なくされた。公式な理由は「人員整理」とされたが、実際には上層部の命令に背いたことが影響していたと考えられている。その後、彼は外交官としてのキャリアを絶たれ、様々な職を転々とする日々を送ることになった。
静かな晩年と世界への遺産
戦後、杉原は外務省を退官し、名誉回復は長い間なされなかった。退官後は様々な職に就き、生活は決して楽なものではなかった。
しかし晩年、長い沈黙の時を経て、彼の勇敢な行動は国際的に評価され始める。1985年、イスラエル政府は彼に「諸国民の中の正義の人」の称号を授与し、その名をエルサレムのヤド・ヴァシェム記念館に刻んだ。この名誉は、ユダヤ人を救った非ユダヤ人に与えられるものであり、彼が命がけで行った人道的行為が正式に認められた瞬間だった。この知らせを受けた杉原は、すでに病に伏していたが、その栄誉に対しても「当然のことをしたまで」と静かに語った。
彼は、1986年7月31日、鎌倉市でその生涯を閉じた。享年86歳だった。生前、彼の行動は日本国内でほとんど知られることはなかったが、その死後、徐々にその偉業が広く伝えられるようになる。
Book
漫画:
自伝・伝記:
なし
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参考文献:
杉原千畝 – Wikipedia
【NPO 杉原千畝命のビザ】NPO Chiune Sugihara. Visas For Life
My father, the quiet hero: how Japan’s Schindler saved 6,000 Jews | Second world war | The Guardian