私には女房と飛行機両方のために
費やす時間はない
人類の夢を翼に変えた挑戦
ライト兄弟の生涯
1903年12月17日、北カロライナ州キティホークの風の吹きすさぶ砂丘で、ウィルバーとオーヴィルのライト兄弟が成し遂げた飛行は、単なる技術的な偉業にとどまらなかった。彼らの操縦による有人動力飛行の成功は、人類の歴史における決定的な転換点であった。
この偉業により世界は地理的な制約から解き放たれた。距離の概念が根本的に変わったのだ。航空技術の進歩により、移動のスピードは飛躍的に向上し、世界は急速に「小さく」なった。第一次世界大戦以降、飛行機は軍事利用においても不可欠な存在となり、さらに第二次世界大戦では戦局を左右する武器としての役割を果たす。その後、ジェット機の登場により、飛行機は単なる移動手段から商業、物流、外交、さらには宇宙開発に至るまで、多様な分野で人類の活動を支える基盤技術となった。
ライト兄弟の飛行からわずか66年後、1969年にはアポロ11号が月面着陸を果たした。この劇的な進歩の起点は、無名の自転車職人だった兄弟の手によって開かれたのである。
夢の始まりと育まれた探究心
ウィルバー・ライトは1867年4月16日、インディアナ州ミルビルに生まれ、弟のオーヴィル・ライトは1871年8月19日、オハイオ州デイトンに生まれた。彼らはミルトン・ライトとスーザン・キャサリン・コーナーの間に生まれた7人兄弟のうちの二人だった。父ミルトンは、キリスト教系の牧師として知られ、母スーザンは工芸や技術に長けた才女であった。母の影響で、ライト兄弟は幼い頃からものづくりへの強い興味を持つようになった。
兄弟が空への憧れを初めて抱いたきっかけは、1878年に父が持ち帰ったおもちゃのヘリコプターだった。紙、竹、コルクで作られた小さな模型は、ゴムの力でプロペラが回り、ふわりと空中に舞い上がる。兄弟はその飛行に魅了され、やがて自分たちでそのおもちゃの模倣を試みるようになる。
しかし、ウィルバーは18歳のときに友人とのアイスホッケー中に負傷し、歯を折るという事故に遭ってしまう。この出来事が彼の内向的な性格を一層強め、当初計画していたイェール大学への進学を断念することになった。一方、オーヴィルは技術への関心を深め、16歳で高校を中退し、自ら設計した印刷機を用いて印刷業を始めた。兄弟はこの印刷業から事業を拡大し、やがて自転車の修理と販売に乗り出すことになった。
知識と技術への飽くなき追求
1892年、ライト兄弟はデイトンに自転車店「ライト・サイクル・カンパニー」を開業する。この事業は、単なる生計手段にとどまらず、兄弟にとって機械工学の知識と技術を磨く絶好の機会となった。自転車の修理と製造を通じて、彼らは機械構造、バランス、操作性に関する深い理解を得ることがでたからだ。
この機械技術への関心が、やがて飛行機研究への情熱へとつながった。また、1896年、ドイツの飛行研究者オットー・リリエンタールのグライダー墜落死のニュースが、兄弟にとって決定的な影響を与えたと言われている。彼らは「空を飛ぶ」という夢が単なる空想ではなく、実現可能な目標であることを確信したのである。
その後、彼らは飛行に関する先行研究を徹底的に調査し、スミソニアン協会に問い合わせて、航空工学に関する文献を取り寄せる。リリエンタールやサミュエル・ラングレーの研究、オクターブ・シャヌートの著作などを精読し、特に飛行中の姿勢制御が未解決の課題であることに着目したのだ。この問題を解決することこそが、飛行機開発の鍵であると彼らは理解したのである。
試行錯誤と挫折を乗り越えて
1900年、兄弟は初めてキティホークに向かい、グライダー実験を開始した。しかし、実験は思うように進まず、当初予想していた揚力は得られなかった。翌年、1901年の実験でも同様に失敗が続き、ウィルバーは「人類が空を飛ぶには千年かかる」とまで語ったという。
だが、この失敗こそが彼らの研究姿勢に大きな転換をもたらすことになった。兄弟はリリエンタールのデータの誤りに気づき、独自に風洞実験装置を自作し、膨大なデータを収集した。実験の結果、揚力と抗力の正確な計算方法を確立し、最適な翼の形状を導き出すことに成功したのである。
1902年には、実験を重ねて設計した新型グライダーで初めて「三軸制御」を実現し、空中での姿勢を自在に制御することに成功した。これにより、彼らは飛行機の操縦に必要な理論と技術をほぼ完成させることになったのである
初飛行への挑戦と成功
次なる課題は、動力飛行を実現することであった。彼らはエンジン製造会社に問い合わせるも、軽量で十分な出力を持つエンジンは存在しなかった。そこで兄弟は、自転車店の機械工チャールズ・テイラーと協力し、独自にエンジンを設計・製作した。
こうして完成した「ライト・フライヤー1号」は、1903年12月17日、キティホークの地でその歴史的瞬間を迎える。午前10時35分、オーヴィルが操縦を担当し、36.6メートル、12秒間の初飛行に成功。その後、4回の飛行が行われ、最終的にウィルバーが記録した59秒、260メートルの飛行がこの日の最高記録となった。
この成功は、単なる偶然ではなく、徹底した研究、膨大な実験、そして失敗を糧にした執念の結果だった。飛行中の制御、エンジンとプロペラの設計、空気力学の原理のすべてが、この瞬間に結実したのである。
航空時代の幕開けとその遺産
初飛行の成功後、兄弟は特許を取得し、1908年から積極的に公開飛行を行うようになった。フランスでのデモ飛行では、観衆を魅了し、飛行技術の優位性を世界に知らしめた。アメリカ陸軍に対するデモでも成功を収め、ライト兄弟の飛行機は軍事利用の道を開くこととなる。
しかし、彼らの挑戦は順風満帆ではなかった。特許を巡る訴訟が次々と起こり、特にグレン・カーチスとの法的争いは長期化した。これにより、ライト兄弟は技術開発に専念できず、ヨーロッパの航空技術に遅れを取ることとなる。
1912年、ウィルバーは腸チフスにより45歳で急逝する。弟のオーヴィルはその後も航空界に関わり続け、1948年に76歳でこの世を去った。