道に迷った者にとって、最も危険なものは順に『恐怖』『寒さ』『飢え』である。極度の飢えには一週間耐えられ、極度の寒さには一日耐えられる。しかし、極度の恐怖は一時間のうちにその人を滅ぼしてしまうかもしれない。
野生とともに生きた教育者
アーネスト・シートン
の生涯
アーネスト・トンプソン・シートンは、単なる作家や画家ではなく、自然と人間の関係を深く見つめ直した思想家であり、教育者だった。彼が残した物語や絵画、そして自然教育の活動は、個人の生き方に影響を与えただけでなく、社会全体に自然と共存することの重要性を広めた。その功績は、ボーイスカウト運動の礎を築き、自然保護活動にも大きな影響を与えている。
厳格な父と大自然の対比
1860年、イギリスのサウスシールズに生まれたアーネスト・トンプソン・シートンは、12人兄弟の末っ子として、賑やかでありながらも厳格な家庭に育った。父親のジョセフ・ローガン・トンプソンは海運業を営み、一時は資産家として成功を収めていたが、船の沈没や海賊の襲撃、経済の変動など度重なる不運に見舞われ、事業は衰退する。最終的に経済的に立ち行かなくなり、一家は新天地を求めてカナダへ移住することを余儀なくされた。
カナダ・オンタリオ州のリンゼーに移り住んだ一家は、開拓者としての生活を始めることになった。しかし、豊かだったイギリスでの暮らしとは一変し、過酷な自然環境の中で生き抜くことを強いられる。父ジョセフは、家族を率いて森を切り開き、農地を作ろうとしたが、重労働と過酷な気候が彼の健康を蝕み、やがて農業を断念する。家族は再び移動し、今度はトロントへと居を構え、ジョセフは会計士として働くこととなる。
そんな環境の変化の中でも、シートンにとって最も大きな影響を与えたのは、父の厳格な教育方針だった。彼は謹厳なキリスト教徒であり、家族に対しては冷酷とも言えるほどの厳しさを持って接した。日曜日は神に仕える時間として過ごすことを義務づけられ、読んでよい本もキリスト教に関する書籍のみと制限されていた。また、少しでも反抗的な言動や態度を取れば容赦なく体罰が下された。これが当時の一般的な家庭教育の一環であったとはいえ、シートンにとっては重い束縛であった。
さらに、父は金銭に関しても極めて厳格だった。シートンが成人した際、ジョセフは彼に対し、生まれてからの生活費の詳細な明細書を突きつけ、それを返済するよう要求した。そこには衣食住にかかった費用のみならず、幼少期の医療費や出産時の医師の診療代まで含まれていたという。
これはシートンにとって決定的な出来事となり、彼は父との関係を完全に断つことを決意する。
しかし、こうした家庭環境の中で、シートンが見出したのが「逃避できる世界」だった。それが、広大な自然とそこに生きる野生動物たちの世界である。家庭の厳しさや社会の制約が重くのしかかる中、彼にとって唯一の自由が許される場所は、家の外に広がる森だった。彼は学校が終わると森へ足を運び、静かに動物たちを観察し、木々の間を歩きながら、その生命の営みに心を奪われた。そこでの時間だけが、彼にとって本当の意味での安らぎと幸福をもたらしてくれるものだった。
シートンは、自然の中にいるときだけは、自分が本来の自分でいられると感じていた。動物たちの生態を見つめ、鳥のさえずりに耳を傾け、風の流れや木の葉の揺れを感じながら、彼は独自の感性を磨いていった。
学問・キャリアの形成:画家か博物学者か
高校を卒業したシートンは、本来博物学者になりたかったが、父親の反対にあい、絵を学ぶ道を選ばされる。オンタリオ美術学校を卒業後、1879年にロンドンのロイヤル・アカデミーに入学する。しかし、ここで彼の運命を変える出会いがあった。それは、大英博物館との出会いだった。
当時19歳のシートンは、21歳未満のため図書館への入館が許されていなかったが、館長に相談すると「イギリス王太子、イングランド国教会の大主教、首相の許可があれば特例として入館できる」と言われる。彼はすぐに三者に手紙を送り、その熱意が認められ、ついに特別な入館許可を得ることができた。こうして彼は昼は博物館で絵を描き、夜は博物学の書籍を読み漁るという生活を送ることになった。
しかし、無理がたたって体を壊し、トロントへ帰郷することになる。帰郷後は、兄の農場を手伝いながら動物の観察を続け、やがて動物画家として活動を始める。そして、動物の生態を詳細に記録し、それを絵にすることで、彼独自のスタイルを確立していった。
転機・試練:ロボとの出会い
シートンの人生における最も大きな転機の一つが、1893年のロボとの出会いである。アメリカの実業家から「牧場の牛が狼に襲われて困っているので助けてほしい」と依頼を受け、ニューメキシコへ向かったシートンは、伝説の狼・ロボと対峙することになる。
シートンはあらゆる手を尽くしてロボを捕らえようとしたが、ロボは賢く、なかなか捕まらなかった。しかし、最終的に彼はロボを罠にかけることに成功する。しかし、そこで彼が目の当たりにしたのは、群れを失い、悲しみに暮れるロボの姿だった。この出来事がシートンの考え方を大きく変える。動物は単なる狩猟の対象ではなく、感情を持つ存在であることを痛感し、彼は自然と動物を守ることを使命とするようになる。この体験をもとに彼が書いた『私の知る野生動物』は1898年に刊行され、全米で大ヒットした。
理論・思想の発展:ウッドクラフトとボーイスカウト
シートンは、子どもたちが自然の中で学び、成長することが重要だと考えるようになり、1902年にウッドクラフト・インディアンズを創設する。これは、ネイティブ・アメリカンの生活様式を模範とした教育活動であり、のちにボーイスカウト運動の基礎となった。
1906年には、ロバート・ベーデン=パウエルと出会い、シートンのウッドクラフトの考えがボーイスカウトの設立に大きく影響を与える。彼はボーイスカウト・アメリカ連盟(BSA)の初代チーフ・スカウトを務めたが、1915年には他の指導者との対立からBSAを離れることとなる。
しかし、彼の教育理念はアメリカ国内だけでなく、世界中に広まっていった。ウッドクラフトの活動は後に発展し、今日でも多くの青少年教育に影響を与えている。
晩年と影響:自然と共生する思想の継承
1930年、シートンはニューメキシコ州サンタフェに移住し、そこで執筆活動を続けるとともに、青少年の自然教育にも携わった。この彼の活動は、単なる「動物物語の作家」にとどまらず、現代の自然保護運動や青少年教育のあり方にまで影響を与えている。
彼が創設したウッドクラフト・インディアンズの理念は、現在の環境教育プログラムやサマーキャンプの原型となり、また彼の動物に関する書籍は、今もなお多くの読者に影響を与え続けている。1946年、86歳で生涯を閉じたシートンの遺志は、彼が残した書籍や教育活動を通じて、今なお生き続けている。
Book:
漫画:

自伝・伝記:
おすすめの本:

参考文献:
Ernest Thompson Seton – Wikipedia
@Musical
TOP 16 QUOTES BY ERNEST THOMPSON SETON | A-Z Quotes