~生涯~
渋沢栄一は、1840年3月16日、武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市)の農家に生まれた。
幼少期に父から読み書きを学び、家業の畑作、藍の生産と販売、養蚕を手伝いながら成長した。その後、従兄で学者の尾高惇忠のもとで儒学の古典や日本の歴史を学ぶ。
アメリカから日本に黒船がやってきたことから、尊皇攘夷思想の影響を受け、その運動に傾倒していく。このとき、従兄や友人とともに高崎城の占拠や横浜の外国人居留地への放火計画を立てるが、最終的に中止している。
23歳で故郷を離れ、一橋慶喜(後の徳川慶喜)の家臣となり、一橋家の財政を立て直す活動で実力を発揮することで、評価を得る。27歳のとき、徳川昭武の随員としてパリ万国博覧会(1867年)に参加。フランスや他のヨーロッパ諸国を訪問し、近代ヨーロッパの社会や文化を目の当たりにし、産業と経済発展の重要性を強く認識することとなった。
明治維新の政変を知り帰国後、静岡県で「商法会所」を設立。日本初の株式会社の一つとされる。その後、明治政府に招かれ、大蔵省の改正掛責任者として近代日本の基盤づくりに力を注ぐ。
1873年、大蔵省を退職し、第一国立銀行(日本初の近代的銀行)の総裁に就任。
この銀行を基盤に、多種多様な企業の設立を推進。渋沢が創設や支援に関わった企業は500社以上におよび、みずほフィナンシャルグループ、東京海上日動火災保険、帝国ホテル、東京証券取引所、王子製紙、サッポロビール、日本郵船など多くが含まれる。
渋沢は「道徳と経済の調和」を理念に掲げ、教育や社会福祉にも尽力し、その一旦として、一橋大学や東京経済大学、女性の高等教育機関の設立を支援した。
民間外交にも積極的で、国際的な交流を促進。1902年にはドイツ、フランス、イギリスを訪問し、1908年にはフランク・A・ヴァンダーリップ率いるアメリカ西海岸商業会議所連合の代表団を日本に招き、日米間の経済交流を深める。
1931年11月11日、91歳で死去。
渋沢が残した影響は経済、教育、社会に広く及び、近代日本の発展に大きな足跡を残した。
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