~生涯~
幼少期と成長
1830年、大久保利通は薩摩国鹿児島に下級藩士の家に生まれる。幼名は正袈裟(しょうけさ)で、少年時代は桜島の火口に石を投げ込むなど、好奇心旺盛でやんちゃな一面を持っていた。一方で学問においては優秀で、郷中教育や藩校で西郷隆盛らと学び、強い絆を築く。
薩摩藩士としての活躍と幕末の動乱
若くして藩政に参与した大久保は、島津斉彬のもとで精忠組の一員として倒幕運動に力を注いだ。当時、藩内では金銭や地位に固執せず、時には私財を投じて藩の公共事業を支えた。父が事件で流罪になった際も、困窮に耐えながら信念を貫いたと言われている。
幕末期には、彼は薩摩藩と長州藩を結びつけ、三藩盟約を主導する。これにより倒幕の基盤を固め、1867年には王政復古の大号令に寄与し、徳川幕府の終焉を迎えさせた。
明治政府の基礎作りと改革
維新後、大久保は新政府で内務卿として実権を握り、版籍奉還や廃藩置県を実現。さらに地租改正、徴兵令、学制改革などを行い、殖産興業を推進する。「富国強兵」を掲げ、日本を近代国家へと導いた。大久保は自らの信念に基づき、不正を許さず、親交のあった人物であっても潔く処分する冷静な一面を持っていた。
彼の働きぶりは公正無私で、私財を蓄えず、必要に応じて公共事業に私財を投じている。そのため、死後には借金が残るほどであったが、債権者たちは大久保の志を尊重し、遺族に返済を求めなかった。
人間味あふれる一面
公務では威厳と冷静さを保ち、畳を回すなど機転を利かせて緊張を和らげる場面もあった。一方、家庭では子煩悩で、帰宅後は子どもたちとの時間を大切にした。囲碁を愛し、負けず嫌いな性格が垣間見えた。彼の趣味嗜好には、玉露や漬物、たばこがあり、これらを楽しむ姿もまた親しみを感じさせるものであった。
最期とその後
1878年、紀尾井坂で不平士族に暗殺され、47歳で生涯を閉じた。その日は「維新の精神を貫徹するには30年必要」と語り、明治日本の将来構想を描いていた。西郷隆盛との友情や対立、西南戦争での涙など、多くのドラマを抱えた人生だった。
死後、大久保は地元鹿児島で「西郷の敵」とみなされる時期もあったが、彼の功績は次第に再評価され、郡山市の大久保神社や鹿児島の銅像などが建てられた。
Book:
漫画:
自伝・伝記
なし
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参考文献: