~生涯~
ネルソン・マンデラは1918年7月18日、南アフリカのクヌ村でテンブ人の首長の子として生まれた。
少年時代に部族社会のリーダーシップや反英闘争の歴史を学び、これが後の反アパルトヘイト運動の原動力となったといわれている。メソジスト派のミッションスクールで学び、大学はフォートヘア大学に入学。しかし、在学中の1940年には学生ストライキを主導したとして退学処分を受ける。
1944年にアフリカ民族会議(ANC)の青年同盟を創設し、反アパルトヘイト運動に本格的に関与していく。
1948年、国民党がアパルトヘイト体制を強化すると、マンデラは抗議運動を主導していった。
1952年には黒人初の弁護士事務所を設立し、ANC副議長に就任。
1955年に自由憲章を採択し、民主主義を掲げるが、1956年に国家転覆罪で逮捕される。しかし、これは無罪となる。
非暴力から武装闘争への転換
1960年のシャープビル虐殺事件を受けて、非暴力運動の限界を感じたマンデラは武装闘争へ転換。
1961年、軍事組織「ウムコントゥ・ウェ・シズウェ」を設立するが、1962年に逮捕され、1964年に終身刑を宣告される。
27年間の投獄生活
マンデラはロベン島の刑務所で27年間を過ごす。この間、勉学を続け、法学士号を取得。また、アフリカーナーとの対話に備え、アフリカーンス語を学ぶ。収監中、彼は黒人解放運動の象徴的存在となり、国際社会から釈放が求められるようになる。
釈放と民主化への歩み
1990年、マンデラは釈放され、ANC議長に就任。国民党との交渉を重ね、1993年に暫定憲法の採択に至る。同年、フレデリック・デクラークとともにノーベル平和賞を受賞。
全人種選挙と南アフリカの新時代
1994年4月、全人種が参加する選挙が実施され、マンデラは南アフリカ初の黒人大統領に選出。アパルトヘイトは終焉を迎え、南アフリカは新たな民主国家として歩み始めた。
大統領時代:全民族融和の象徴
1994年4月27日、南アフリカ史上初の全人種参加選挙が実施され、ANCは得票率62.65%で圧勝。ネルソン・マンデラは初の黒人大統領に就任した。就任式では多宗教の指導者たちが祈りを捧げ、全宗教の融和を象徴する場となった。新政権はANC、国民党、インカタ自由党の連立による統一政府で、全人種が共存する新たな国家建設を目指すと宣言した。
マンデラは「虹の国」というビジョンを掲げ、新国旗や新国歌を導入して全人種の統合を推進していった。特に、1995年のラグビーW杯では白人主体の南アフリカ代表「スプリングボクス」を国民融和の象徴として支援し、大会成功を通じて国民の団結を強化する。この活動は後に映画『インビクタス』として描かれている。
経済政策と課題
経済面ではアパルトヘイト時代の格差是正と生活改善を目指し、「復興開発計画(RDP)」を導入した。しかし、インフラ整備や公共投資を進めたものの、経済成長は一部の層に留まり、格差問題の解決には至らなかった。そうではあるが、穏健な政策により南アフリカからの資本流出は防ぎ、経済成長を実現する。これにより南アフリカはBRICSの一員として国際的な地位を高めた。
しかし、貧困層の増加や都市部の治安悪化、エイズ対策の遅れなどの課題も残り、これらがマンデラ政権の弱点とされていた。
引退と晩年
1996年に新憲法が制定され、多言語国家としての姿勢を強調。国民党との連立が解消された後もANC中心の政権運営を維持する。ま1999年にマンデラは任期満了で大統領職を退任し、ターボ・ムベキを後継に指名して政界を引退する。
引退後もマンデラは国際的な紛争調停や人権活動に尽力する。
2008年にはアメリカのテロリスト監視リストから正式に除外され、その功績が再評価された。
死去と遺産
2013年12月5日、マンデラは95歳で死去。
彼の葬儀には世界各国の指導者が参列し、彼の功績を讃えた。生まれ故郷クヌで埋葬されたマンデラは、南アフリカだけでなく世界中で「自由と和解の象徴」として記憶されることになった。
BooK
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